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小説 「ノスタルジア」 4

4.配置換え


 暴れてしまった翌日から数日間、悠介は仕事を休みました。その間、睦美むつみは悠介の悪口を言い続けました。妹の直美は何度も「やめろ!」と言いましたが、睦美は それを鼻で嗤い、しつこく悠介を貶め続けました。悠介が休んでいる間、やりたくもないデスクワークを肩代わりしなければならないことが、睦美はずっと不満だったようです。
 あまりにも幼稚な兄に対し、直美は怒りを募らせましたが、常務は「今に雷が落ちるよ」と言って彼女を宥め、自身も特に叱責はせず悠然としていました。
 そして、その言葉通りに、睦美は工場長から凄まじい【制裁】を受けました。自社で最も過酷な仕事……原材料となる粉を、専用の機械で水や他の化学物質などと練り合わせ、巨大なゴム板を生成する仕事(社内での通称は『練成』)を、睦美一人に丸投げしました。普段その仕事をしている6人には、別の棟で全く違う仕事を任せ、誰一人 睦美を手伝えない状況を作り出しました。そうした上で、仕事が時間内に終わらなければ容赦なく怒鳴りつけ、残業を課し、納期に間に合わない品が出れば、始末書を書かせました。
 工場長は、睦美が悠介に毎日 過剰な量の仕事を押し付けていたことを知っていたのです。


 睦美が、とうとう音を上げて、泣きながら工場長に土下座をした次の日、熟練者6人は生ゴム練成に戻され、悠介も復帰しました。

 悠介は、椅子を破壊したことについて工場長から激しい叱責を受けることを覚悟し、自分から謝りに行きましたが、工場長は彼を叱りませんでした。病み上がりの彼を労わり、今日からは別の先輩社員と組んで仕事をするよう言い渡しました。
 戸惑う悠介に対し、工場長は「練成のほうが忙しくなってきたから、睦美を異動させた」とだけ答えました。

 悠介の新しい指導役は、直美でした。
 彼女は「世代交代に向けた新しい勉強」として、事務所で営業部の人々に混じって書類作成や電話番をしながら、製図担当の悠介への指示・指導をすることになったのです。

 それまで睦美が座っていた席に直美が居るというのが不思議でならず、悠介はパソコンに向かいながらも無意識のうちに彼女の横顔を何度も見つめていました。それに気付いた営業部の社員達が「惚れたのか?」と冷やかし「お嬢には彼氏が居るんだ、諦めな!」と笑いました。
 3代目工場長の孫であり、小学生の頃から「社長になる!」と意気込んでいた直美は、大学卒業後はあえて取引先に入社して研鑽を積み、30歳になったのを機に、この会社に『帰って』きました。そして「彼氏」というのは、前の勤務先で知り合った、とある企業経営者の次男……と、風の噂で聞きました。家業のことは兄に任せ、直美のところへ婿養子に来るのではないか?との噂もありました。
 その話を知っていて、更には既に「意中の人」が居た悠介は、決して直美のことを恋愛の対象としては見ていませんでしたが、「歳の近い男女が、長時間 並んで座っている」というだけで、恋愛と結びつけて茶化す人は何人も居ました。

 現場での仕事が大好きな直美は、毎日【金曜日の夜】が待ち遠しくて仕方ありませんでした。その時間帯だけしか、事務所を離れることが許されなくなってしまったからです。
 座り仕事が嫌いな彼女は、時間内はいつも靴を脱いで脚を組んだり、椅子の上で胡座をかいたり、落ち着きません。しまいには、立ち上がってボクシングの真似事をし始めました。立ち方や構え、避け方は、なかなか様になっていて、真顔で「シュッ!シュッ!」と言いながら、拳を素早く突き出しては戻します。すっかり「イメージトレーニング」の世界に入り込んでいます。
 悠介は、席に座ったまま その姿をただ茫然と見ていました。20人近くが働いている事務所で、しかも勤務時間内に、堂々とそんなことが出来る彼女の図太さに、圧倒されていました。
「…………お嬢、そろそろ仕事に戻ってください」
営業マンの一人が、ついに止めました。直美は、不満げです。
「経費でサンドバッグを買いましょう!」
「どこに置くんすか?」
「会議室の隅にでも置きましょう!……そんでもって、兄貴の名前を貼っ付けて、ボコボコにします!!」
「おっと……」
彼は目を丸くして驚いたふりをしましたが、自分も右手で拳を作って、左の掌を叩きました。「俺も殴っちゃおうかな?」なんて、思っていそうです。
 直美のほうは、完全に集中力が切れているらしく、自分の椅子を持って悠介のすぐ隣に移動してきました。互いの脚が、くっつきそうなほどです。
「悠さん、製図は順調ですか?」
「……うぃっす」
直美は画面を覗き込み、悠介の仕事ぶりを確認します。
 毎日、悠介が事務所のパソコンを使って ひたすら描いているものが、現場のパソコンに送られ、そこで自動機のオペレーターによるチェックを受けてから使用されます。自動機は、入力された図面に描かれている通りに刃物を動かし、巨大なゴムシートを切ります。(もしくは、ペンを動かして『罫書けがき』をします。罫書きとは、後の工程で穴をあける位置に丸を描いたり、切る位置に線を引いたりといった目印を、材料に付けることです。)機械は、ミリ単位で指定された座標と寸法を、完璧に守ります。
 製品の形状を指定するのは取引先の人々ですが、彼らが送ってくるのはFAXで、それをそのまま自動機に取り込むことはできません。そのため、人の手でパソコンに図面を入力する、この作業が欠かせないのです。
 しかし、悠介は今の担当業務があまり好きではありませんでした。彼も、直美と同じように現場仕事が、特に手動機の操作が大好きなのです。自分の手を動かして何かを造るのが、彼らにとっては【生き甲斐】でした。
「……悠さん、眠そうですね」
「そうすか?」
「製図には飽きましたか?」
「まぁ……そうなんすけど……でも今の俺には、これくらいしか出来ることが無いんで……」
「この前、完璧な『穴あけ』をしてくれたじゃないですか!」
あの時の喜びは、悠介だってもちろん憶えています。毎週、あんな感覚に浸れるなら……定年までだって、頑張れそうなくらいです。
 しかし、あの日に受けた理不尽な説教と、その後の自分の癇癪かんしゃくは、ちょっとした「心の傷」でした。今ここで、この会話を聞いている社員の中にも、あの日の出来事を知っている人が、居るに違いないのです。良識のある亘や常務、直美は何も言ってきませんが、自分はもう、社内では完全に「頭がおかしい奴」に分類されているでしょう。
 悠介の考えは、どんどんと悪いほうへ、悪いほうへ、巡っていきました。以前に働いた会社での凄惨な出来事や、育った家庭の悲惨な環境、発病直後に受けた両親からの冷遇まで、次々と思い起こされます。そして「だから、自分は誰からも受け容れてもらえない」「いつかは見捨てられる」という【確信】がありました。……この会社でも、あれだけ暴れてしまったわけですから、いつかは「クビ」になるでしょう。
「悠さん?どうしましたか?」
直美の声は聴こえていますが、体が全く動きません。頭が「考え事」をやめてくれず、話したいはずの言葉が、文章に成りません。応えることが、できません。
「具合悪いんですか?……少し、休みますか?」
先生の家に居ても、今と同じ症状が出ることがあります。過去の出来事ばかりが頭を支配して、自信というものの一切が消え失せ、自分では何ひとつ出来なくなってしまうのです。着替えも、食事も、何もかも……。すれば、何者かによって「怒鳴られる」か「殴られる」気がしてならないのです。(この会社で言えば、睦美が誰よりも恐ろしい存在で、他の、よく知らない人達も、ほとんど全員が『自分を見張っている』ように思えてなりません。具体的な他者ではなく、漠然とした、何か恐ろしい『神様』や『化け物』のようなものに、怯えてしまう時もあります。)
 ひとたび自信を失くすと、何をすれば【罪】にはならないのか、見逃してもらえるのか、全く解らなくなってしまうのです。
「悠さん!私の声、聴こえてますか……!?」
直美は、ずっと悠介の右手を握って声をかけ続けてくれますが、悠介は動けません。
 こうなってしまわないための薬を、1日に4回も飲んでいるのですが、それでも なる時はなりますし、今日に関しては昼食後の分を飲み忘れたかもしれません。
「あぁ、またか……」
ついさっきまで直美と軽口を交わしていた営業マンの内藤が立ち上がり、悠介のもとへやってきました。
「松尾。パソコン上書きするからな?」
そう言って、彼は動けない悠介の代わりに、パソコンを操作します。
「こいつ、たまに こうやって『フリーズ』するんですよ……そういう病気らしいんすけど」
「えぇ……!?」
直美は、そんなことは初めて聴きました。
「だから、まぁ……事務仕事が、いちばん安心なんすよね」
内藤は、工場長から指示されている通り、固まってしまった悠介の背中をさすってやります。大きな犬でも撫でているかのような、やや大雑把な動作ですが、そうしていれば、いずれ動きだすことが判っているのです。
「旋盤とかの前で、こうなっちゃあ……死ぬでしょ」
他社でなら、職人が旋盤に巻き込まれて死亡した事例はあります。
「あんまり……無茶させないでやってくださいね。うちから死亡事故出したくないんで……」
「そ、それはもちろん」
直美は力強く頷きます。

 やがて、悠介はぶるぶると身体を震わせながら、涙を流し始めました。
「す、すいません……俺、また……」
「良いから、良いから。ちょっと休もうな」
内藤は、悠介の肩をぽんぽんと叩いてやりながら「立てるか?」と問いかけ、悠介が立ったら、2階の更衣室まで付き添ってやりました。
 事務所でパソコンに向かっている社員達は、誰も一言も言いません。直美は、黙って自分の仕事に戻りました。そして、立ち上がって遊んでいた自分が、恥ずかしくなりました。

 悠介は、少しだけ2階で休んでから、再び製図の仕事に戻り、定時までに きちんと やり遂げました。そして、時間が来たら直美と内藤に深々と頭を下げてから、退勤していきました。
 直美達は、今日もまだまだ残業をするつもりです。特に、営業部は夜間こそが忙しいのです。翌日の営業時間内に滞りなく全てを終わらせるには、前夜の「準備」が欠かせませんでした。
 内藤が「外の自販機に行ってくる」と言って席を立った時、直美も後から追いかけました。

 缶コーヒーを買って、そのまま煙草を吸いに行く気でいた内藤は、自販機に500円玉を入れてから「どれにします?」と直美に訊きました。初めは遠慮した直美でしたが、ややあって欲しい物のボタンを押しました。
 この会社では、残業時に先輩社員が後輩やアルバイトに自販機で何かを買ってやるのは「当たり前の厚意」でした。(自販機の売上は、会社の収益になります。)
 後から自分のコーヒーを買った内藤に、直美が切り出します。
「今、お時間大丈夫ですか?」
「電話が鳴らない限り、大丈夫っすよ」
「悠さんの身体のことを……訊いても良いですか?」
「工場長から、説明無かったんすか?」
「あまり、詳しいことは……」
「俺らも、そんな大して知らねっすよ」
内藤は、その場で缶コーヒーを振って、開けました。
「昼間の……あの『固まってしまう』状態は、意識を失ってるんですか?」
「いや、意識はありますよ。ただ……『あがり症』の、すごく酷いやつらしいっす」
「あがり症……」
「周りに人がたくさん居て、緊張しながらパソコンしてて、いきなり、わけわかんねぇ奴にグダグダ言われて……頭がパンクするっていうか……」
その「わけわかんねぇ奴」は、兄に違いありません。直美は、心の中で「彼を混乱させないように、気をつけよう」と誓いました。
「今日のに関しては、原因が分かんないっすけど…………まぁ、製図は完璧にやってくれるんで。俺らとしては、助かってます」
悠介が入社する前は、現場に居るオペレーターが直接入力するか、営業マンであるはずの内藤達が、他の業務の合間に入力していたのです。専任の担当者が就いて、作業効率は格段に良くなりました。
「大事な戦力ですよ、松尾は」
 内藤は冷たい缶コーヒーをぐびぐびと飲み干し、すぐに空き缶を捨てました。
「……俺、煙草吸ってきていいすか?」
「はい、もちろん。どうぞ」
内藤は軽く一礼してから、現場裏に消えていきました。そこで煙草を吸っているはずの、常務に用があるのでしょう。

 その場に残った直美は、未開封のペットボトルを手にしたまま、シャッターが全開となっている機械場の中を眺めていました。放課後だからこそ出勤してくるアルバイトの学生達と、朝から働き詰めでクタクタのはずの社員達が、共に汗を流しています。直美は、そこに混じりたくて堪りませんでした。
 しかし、今は内藤の下で学ばなければならないことが山ほどあります。そこから逃げるわけにはいきません。……悠介だって、すぐ側であんなに頑張っているのです。「次期社長」の自分が、甘えるわけにはいきません。
(私も頑張ろう……!!)

 決意を新たに、彼女は事務所へ戻っていきました。


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