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忘れられた自由・平等のパイオニア(前編)

アメリカにおける黒人男性殺害事件以降、反差別のうねりが世界へと拡大しています。

現在の差別の大きな元凶は、植民地主義や奴隷制度にあることは明白です。
そして、それが当たり前とされていた時代、ある人物がその価値観に敢然と反対の立場を取りました。
現在高まっている「反差別」「自由」「平等」、そして「エコロジー」
その思想を最初に声高に主張した人物を、今日は取り上げてみたいと思います。

1、その男、実は有名人

その人物とは、アレクサンダー・フォン・フンボルト

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地理を勉強したことがある人は、聞き覚えのある名前ではないでしょうか。
そう、南アメリカ大陸西岸を流れる寒流、「フンボルト海流」

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の由来にもなっている人物で、南アメリカ大陸の赤道近く(つまり熱帯地域)から中緯度付近まで分布する「フンボルトペンギン」

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がいたりします。
しかし、多くの方は、この人、名前は聞いたことはあるけれど…誰?という感じなのではないでしょうか。

フルネームはフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt)。
何だか、セレブ感のある名前です。
1769年9月14日生まれ、1859年5月6日没。
同時代は、ヨーロッパならナポレオン、日本で言えば江戸時代、田沼意次や松平定信らが活躍していた頃ですね。

さて、フンボルトの生まれは何となく名前からも推測できますが、ドイツです。
生家は国王の侍従を務めていたプロイセン貴族で、幼い頃から家庭教師による優れた教育を受けていました。
彼は周囲の自然に強い関心を示し、動植物を収集・観察し、読書も大好きでした。
そんな彼は、後にヨーロッパ中に名を馳せることになります。

19世紀当時、彼のヨーロッパでの知名度は、何とナポレオン

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に次いで2番目だった、とも言われるほどなのです。

2、フンボルトと啓蒙主義

まず彼は大学で、新ジャンルの学問を修めました。
それは「鉱山学」
産業革命真っただ中の18世紀、古くから存在していた錬金術から、産業に必要なものをふるい分けるために生まれた学問でした。
そこで彼は、仮説を立て、議論し、厳密に観察・測定するプロセスを叩き込まれました。
別の言い方をすれば、フンボルトは、18世紀に台頭した啓蒙主義を体現する人物であったともいえるでしょう。

啓蒙主義
18世紀のヨーロッパで起こった、中世的な思想、慣習を打ち破り近代的・合理的な知識体系を打ち立てようとした運動のこと

当時のヨーロッパは、テクノロジーの進化によって自然との関係性に変化が生じていました。
今まで神のものとされていた自然現象が、科学的に実証され、予測できるようになっていったのです。
これは、人間が自然を理解し、予測し、支配できる時代の始まりと捉えられました。
しかしこれから先、人々は、自然に対する畏敬の心を徐々に失っていくことになります。

一方で、未だに分野が細分化される前の「博物学」が隆盛を誇っていた時代でもあり、好奇心の塊だった彼は、様々な分野の知識を吸収していきます。
そして彼は

・教義に囚われず、大胆な仮説を立てる創造力
・平等に意見を吟味し、議論する姿勢
・卓越した観察力
・正確無比な測定技術
・博物学に基づく、物事を俯瞰する視点

を手に入れたのです。
古代から近代までの学問の良いところ取り、とも言えそうです。
後に、これらを全て併せ持った学問分野として「自然科学」が生まれていくことになります。

そんな彼は、大学卒業後に鉱山監督官という公職に大抜擢されました。
3年かかる課程を何と8か月で終えた秀才ですから、これには周囲も納得でした。また、この進路選択には母親の強い意向があったとされています。

彼はこの時、鉱山労働者たちの労働環境を守るため、呼吸マスクや低酸素状態でも消えないランプを開発、鉱山に関する知識を伝授するための学校迄設立しました。

以前から一度研究を始めると寝食を忘れ没頭する傾向がありましたが、この時にもその姿勢は健在。
同僚にして「8本の脚と4本の手」があるようだと言わしめたほどでした。

3、フンボルトの闇、ゲーテとの出会い

フンボルトは貴族の生まれ、当時にしては長身で見目麗しく、そして知性に溢れていました。

そんな完全無欠のフンボルトですが、彼には悩みがありました。
それは、抑えきれない「独立欲」と「承認欲求」。
彼は神経症を患い、常に孤独感にさいなまれていました。
これは、厳格な家庭環境や幼くして父を亡くしたこと、2つ上の兄と同じ勉強をしていた(劣等感を持った)ことなども影響したようです。
彼を理解する数少ない友人に、突然感情むき出しの長い手紙を送りつけることもしばしばだったようです。

しかし、そんな彼と一人の詩人が出会うことになります。

1794年(フンボルト25歳の時)、彼はベルリンを離れてイェーナという小さな町で暮らしていた兄のもとを訪れました。
兄はその町で、ある知識人のサークルに入っていました。
そのサークルの中心人物こそ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)

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でした。

詩人としての知名度が圧倒的に高いゲーテですが、実は彼、自然科学者、地質学者でもありました。

また、40代の壮年期を迎えたゲーテは、地位も財産も名声もあったものの、世の中に失望し孤独感にさいなまれ、覇気を失いかけていました。
フランス革命の理想は失われて、ギロチンによる大量処刑、続くナポレオン戦争と世の中は乱れていったからです。
そんな彼が没頭したのが地質学の研究でした。
しかしその分野でも彼と話が合う人がおらず、ゲーテは孤独感にさいなまれていたのです。

そんな時に現れたのが、麗しき秀才、フンボルト。
この出会いはもはや運命としか言いようのないものでした。
似た背景と孤独感を共有する2人は意気投合。日々互いの意見を交換し、価値観をぶつけ合いました。

この出会いはゲーテにとっては自然科学へのさらなる興味を掻き立てるものであり、彼は人が変わったように覇気を取り戻し、仕事に没頭するようになります。
ただ、親友シラーにとっては、科学分野に傾倒するゲーテの姿は面白くなかったようです。もっとも晩年のゲーテは、芸術と科学を融合させようとしていたので、シラーの懸念は的外れだったとも言えるのですが。
その集大成ともいえるのが詩劇『ファウスト』ですね。

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一方、フンボルトにも大きな価値観の変化をもたらしました。
以前の彼は技術者として、客観的な「測定」が最重要であると考えていました。
しかし、自然を理解するには知覚と主観、想像力も必要であると考えるようになったのです。
ゲーテの自我と自然、主観と客観、科学と創造力の関係性、つまり内的世界と外的世界の関係性の研究に影響を受けたものと考えられます。
こうして、フンボルトは「自然を見て理解する」という、同時代の科学者が持たない新たな力を獲得します。

そんな中、1796年、彼に強い影響を与え続けた母親が死去。
彼は親の遺産を受け継ぎました。すると彼は一念発起し、何と鉱山監督官を辞めてしまったのです。

彼が志したもの、それは「冒険」でした。
幼い頃に読んだ多くの書籍、そこには新大陸を目指した冒険家達の記録も含まれていました。
その頃から、冒険家になる夢を抱き続けていたと言われています。

啓蒙主義の進歩的思想、科学的分析力とゲーテ譲りの想像力を併せ持つフンボルトが、冒険家としてどのような活躍をしていくのか…。
これについては、彼の業績を語る後編で触れていきたいと思います。

今回はここまで、ということで。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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