クリムト

「クリムト展」に行ってみた

先日、東京に出かけた際に「クリムト展」を見るため、上野公園の東京都美術館に行ってみました。

ちなみに、クリムト展の公式ページはこちら

です。
彼の名は、グスタフ・クリムト(ドイツ語: Gustav Klimt)

世紀末ウィーンを代表するオーストリア=ハンガリー帝国の画家です。

1、クリムトが生きた時代

グスタフ・クリムトは1862年、フランツ・ヨーゼフ1世

統治下のオーストリア=ハンガリー帝国首都、ウィーン郊外に7人兄弟の第2子として生まれました。

フランツ・ヨーゼフ1世といえば、在位68年(!)に及んだオーストリア=ハンガリー帝国を代表する皇帝。
彼の統治下では、帝国の混乱と凋落、ヨーロッパで吹き荒れるナショナリズムの嵐、経済的に見ても不安定な時代でした。
そんな中、帝国はユダヤ人の保護、多文化主義など、他のヨーロッパ諸国とは異なる道を歩みます。
人々は、帝国の行く末に不安を感じ、関心を文化に向けていきます。
そして、芸術や学問などが爛熟を極めていきます。しかしそれは、「世紀末」の言葉通り、脱世俗・情念的・退廃的な雰囲気も含むものでした。
これらの芸術や学問は、20世紀の芸術・学問にも多大な影響を与えることになります。

2、グスタフ・クリムトの人生(保守的なクリムト)

さて、彼は1876年に博物館付属工芸学校に入学し、伝統的で保守的な美術を学びました。彼が当時最も尊敬する画家として挙げていたのが、ウィーン最高の歴史画家であるハンス・マカルト

であったことからも、彼の志向が見て取れます。
後に弟のエルンストとゲオルクもこの学校に学び、それぞれ才能を開花させます。
エルンストは早世しますが、優れた芸術家として作品を残しています。

(Vor der Hochzeit)

ゲオルクは、のちに優れた彫金家として彼の絵の額装も請け負うようになります。

1879年にクリムトは弟たち、そして友人のフランツ・マッチュ

と共同で美術やデザインの請負を始めます。彼のずば抜けたデッサン力は高い評価を受け、在学中から多くの注文を受けたそうです。

卒業後に彼らは芸術家商会 (Künstlercompagnie) を設立します。
劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗り、各地から仕事の依頼が舞い込むようになります。
1886年から1888年まではウィーンのブルク劇場の装飾を手掛け、1888年に製作した『旧ブルク劇場の観客席』では第一回皇帝賞をうけるなど、その才能は高く評価されました。
またウィーン大学とルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの名誉会員にもなり、その名声は高まっていきます。
ウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891年にクンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入しました。

しかし、1892年に父と弟のエルンストが相次いで死去し、彼はエルンストの妻と娘の後見人を引き受けることになります。
この悲しみが、彼の芸術的志向が大きく変化させることになります。
エルンストの娘ヘレーネ(作品制作当時6歳)を描いたのが

(The portrait of Helene Klimt)

こちら。6歳にしては非常に大人びた印象です。人間の内面性を浮かび上がらせるクリムトの画風は、ここから顕著になっていきます。

そして、装飾家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』『医学』『法学』の『学部の絵』を担当することになりました。
しかし、この絵が彼の芸術家としてのキャリアを大きく変えていくことになります。

3、グスタフ・クリムトの人生(分離派クリムト)


人間の知性の勝利を高らかに歌いあげる、保守的な作品という依頼者の意図に反して、理性の優越性を否定する寓意に満ちた前衛的な作品を描いたクリムト。

この作品は大論争を巻き起こし、帝国議会で文部大臣が糾弾される事態に発展します。
あまりの事態に嫌気がさしたクリムトは、契約の破棄を求め、美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年に他の作品と共に作品自体は焼失しています。
その後の彼は、公的な依頼は一切受けなくなり、政治・社会に対する批判を強めていきます。そして、象徴主義や女性の裸体像を多く描くようになります。

同じころ、彼には一人の女性との出会いがありました。
女性の名はエミーリエ・フレーゲ

(Emilie Flöge)

エルンストの妻の妹にあたる人物で、実業家。彼の有力なパトロンの一人でもありました。
彼女とは生涯行動を共にするようになります。恋仲ではない、とされていますが、どうでしょう?
その辺りはクリムト展で色々展示されていますので是非。

1897年には、保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によってウィーン分離派が結成されました。
分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めてます。
分離派は展覧会、出版など、積極的な活動を展開。アール・ヌーヴォー、象徴主義、自然主義、リアリズムなど、多くのスタイルが共存し、モダンデザインの成立に大きな役割を果たします。
政府も、分離派会館

の建設用地を貸与するなど、その活動を支援しています。この辺りは、文化の多様性を重んじる当時の気風が伺えますね。

クリムトは1902年の第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品しました。
この作品、何とクリムト展にも展示されているのですが、見た時にとても心に迫るものがありました。
是非、貸出している解説も聞きながらご覧ください。

そして、彼はこの激動の時期に、年に一度、夏になるとアッターゼ湖岸辺でエミーリエと共にバカンスにでかけ、そこで多くの風景画を描いたのです。
その頃の風景画、

色合いにも何とも言えない優しさがあります。
この時が、彼にとって心落ち着く癒しの時間だったのでしょうか。
個人的には、クリムトの風景画、数ある作品の中で一番好きなのですが。

4、グスタフ・クリムトの人生(黄金期のクリムト)

20世紀に入ると、クリムトはパトロンたちからの支援により、潤沢な製作費を得るようになります。
さらに、1867年の第二回パリ万博以降、ヨーロッパ美術界を席巻していたジャポニズムの影響も顕著に受けています。
クリムトの絵画の多くは金箔が使われているのは、そういった理由があります。
代表作の『ユディト』

や、エミーリエをモデルにしたとされる『接吻』

もそうですね。
彼は多くの日本の美術品を収集しており、その多大な影響を受けたことも伺えます。

1904年に、彼はベルギーの金融業者で富豪のアドルフ・ストックレー邸の内装を手がけました。
ストックレー邸は、モダニズム建築の代表格として2009年、世界遺産に登録されています。

晩年の彼は、金箔を用いた装飾的な絵画からも離れ、ポートレートのような作品を多く残しています。

女性画を多く描いたクリムト。
彼のアトリエには、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともありました。
何人もの女性が裸婦モデルをつとめましたが、奔放だった彼と愛人関係にあった女性も多く、妊娠した女性も。生涯結婚はしなかったものの、非嫡出子の存在も多数判明しています。
一方で彼の服装はいたって質素、ウィーンの社交界に顔を出すこともほとんどなく、生涯を自分の家族たちと芸術に捧げています。
また、彼は自画像を描くことはありませんでした。

私の自画像はない。私は自分自身にまったく関心がなく、他人のことばかり、とくに女性、そして他の色々な現象ばかり興味があった。私に特別なものはない。

彼の言葉です。

彼はスペイン風邪にかかり、 1918年2月6日、その人生を終えます。
最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」でした。
エミーリエは、やはり彼にとって特別な存在だったのでしょうか。

「クリムト展」では、彼の人生を、作品群を通して詳細に映し出しており、大変に見ごたえがありました。
まだ期間はありますので、是非足を運んでみてください。おすすめです!

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