元禄国絵図_山城

文明と地図を考える その19 「国絵図」序論

前回の記事では、日本史上最も長く使われたであろう「行基図」について触れました。
行基図は、日本を非常に大まかに描いた地図でしたが、実は仏教的な意味が強い地図でもありました。

そして江戸時代に入り、印刷物としての地図が普及すると、行基図からも仏教的な意味合いは薄れていきます。
さらに、全国的な統治機構が整備され、交通網や物流網が飛躍的に発達した江戸時代では、より実用的な地図が求められるようになっていきます。

江戸時代の地図といえば伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図(伊能図)」

や、長久保赤水の「改正日本輿地路程全図(赤水図)」

などが有名ですが、それ以外にも用途に合わせて様々な地図が作られました。日本史上、最も色々な地図が入り乱れて存在していたのが江戸時代とも言えます。

全ての地図を取り上げていくときりがありませんので、大まかにいくつかの流れに分けて、江戸時代の地図を追っていきたいと思います。

というわけで今回のテーマは

江戸時代の官製日本地図①
日本図と国絵図について

です。

江戸幕府が開かれてから、まず真っ先に幕府が大名に命じたこと、それは「検地」をして「郷帳」を提出すること、そして「国絵図」を作成・提出することでした。

検地は江戸時代以前から行われていたものですが、一番の目的はその地域の経済力を把握することでした。
よく知られたものが豊臣秀吉が行った「太閤検地」ですね。

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