古代の髪、その美学(前編)
古今東西、「髪」は人の容姿に関係する大きなポイントであり続けています。
美しさの基準は時代によって変わるものの、その時々の「美しさ」を求めて1万年をゆうに超える期間、努力が続けられてきました。
髪は、物質的に考えれば、
硬質たんぱく質(ケラチン)
の塊に過ぎませんし、役割として考えれば、
外的な影響から頭部を保護する
体内の有害物質を排出する
部位に過ぎません。
その髪が、なぜ美しさの追求の対象になるかと言えば、
人体の中で最も細かく、多彩にアレンジがきく場所
だからです。
色、長さ、形、装飾…組み合わせれば、そのアレンジは無限大です。
実際、古代の装身具の中でも、髪飾りの多彩さは目を見張るものがあります。
例えば日本の縄文時代。
縄文時代と言えば、原始的な時代で大しておしゃれなどしていないだろう…と思うと、それは大きな間違いです。
縄文時代は食糧も豊富で社会は非常に安定しており、各地で大規模かつ高度なコミュニティをがつくられていました。
(だから1万年も続いたのだ、とも言えます)
この頃の一般的な髪形は結髪(けっぱつ)。
今で言うアップスタイルですね。
これは、2005年に国立科学博物館で開催された「縄文対弥生 ガチンコ対決」展の宣伝用ポスターです。
身体を動かす作業も多かったので結い上げたのでしょう。
(後世でも、体を動かす人は結髪にする傾向があります)
出土品を見ると、
・漆塗りの櫛
・動物の骨製のヘアピン
・糸製のヘアバンド(サメの歯つき)
など、なかなかに多彩。
縄文人は優れた漆工芸の技術を持っていたので、漆の櫛も
こんなにおしゃれなのです!(鳥浜貝塚遺跡出土)
塗られているのは赤漆。凝ってますね…。
縄文人の女性は、これらのアイテムを駆使しておしゃれを楽しんでいたようです。
弥生時代以降は、人々の間に身分差が生まれました。
そのため、身分によって髪型や装飾品も異なります。
例えば弥生時代の女性は、
魏志倭人伝の記録では「婦人被髮屈紒」、後漢書東夷伝には「女人被髪屈紒」と書かれています。
どうやら、上の写真のように、前髪を垂らし後ろの髪を曲げ、糸で束ねていたようです。
身分の高い女性になると、
こんな髪型に。
通称「古墳島田」と呼ばれていて、その後の日本の結髪のベースになったと言われています。
古墳時代になると、卑弥呼
イラストレーター 長野 剛 氏による【倭女王卑弥呼】像 (2013)
でおなじみの垂髪(すいはつ)が見られるようになります。
つまり、おろした状態ですね。
通称「すべしもとどり」「すべらかし」とも言われました。
一方で、弥生時代からの古墳島田も見られ、身分や出身地によって髪型や髪飾りは多様性を増していきます。
身分の高い女性は、イラストのように金でできた精巧な冠をつけることもあったようです。
飛鳥時代以降になると、中国の影響が強くなります。
特に、奈良時代の代表的な髪形で言うと、結髪の「双髻(そうけい)」
上は中国(唐代)の女性像です。
日本と中国(唐)の双髻の形はあまり変わらないので、やはり唐の文化の影響を受けていると考えられます。
しかし、この頃の女性たちがどのように頭髪をケアしていたかについては、よくわかっていません。
一説には、植物から出るネバネバの粘液を髪に塗り、つやを保っていたといいます。古代でも「ツヤツヤの髪」というのは変わらぬ美の基準だったのでしょうか。
ちなみに、「ヘアケア」に関するはっきりした記録が初めて出てくるのは平安時代の事です。
というわけで、次回は平安期の女性にとっての髪はどのようなものだったのか…について触れていきたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回の記事作成にあたり、イラストの使用を快諾していただいた長野剛様に改めて深くお礼申し上げます。
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