富会

江戸の「富くじ」公認の日

4月21日というと、享保15(1730)年、富くじ(当時の宝くじ)が幕府公認になった日です。

最近、宝くじの売り上げ低迷が囁かれていますが、その歴史は紆余曲折を経ながらも意外に長いもの。

というわけで、今日は日本の宝くじの歴史について触れてみたいと思います。


1、宗教行事から始まった「富くじ」

宝くじというと、抽選で一獲千金を狙うちょっとしたギャンブル要素があります。
江戸時代に流行した「富くじ」も性格は同じなのですが、その大元をたどると、ちょっと様子が違います。

日本における「宝くじ」のルーツは、江戸時代初期に摂津国(現在の大阪府)にある箕面山瀧安寺でなどで行われた「富会」や「箕面富」と呼ばれる新年の宗教行事だとされます(諸説あり)。

ただ、この時には当選してもらえるのは現金ではなく、特別なお守り
ギャンブル性は皆無で、今の宝くじとはだいぶ様子が違いますね。

ちなみに、当時の抽選スタイルは

・木箱に、皆が自分の名前を書いた木札を入れる
・抽選日になると、僧侶が公衆の面前で錐を木箱の中に3回突き刺す
・錐の先に刺さっていた木札が当選

というものでした。
このスタイルは後々まで続き、そのため富くじは「富突」とも呼ばれます。

当時の抽選道具。抽選会も一つのエンターテイメントだったようです。

さて、当初はギャンブル要素がなかった富くじですが、各地で興行(イベント)として行われるうちに、お客を集めるためギャンブル要素が強まってきます。
その人気の過熱ぶりを懸念した幕府は、富くじ禁止令を幾度となく発布するのですが、流行は過熱するばかりでした。


2、徳川吉宗は寛容なのか、それとも…

そこで、8代将軍徳川吉宗

は、大胆な政策変更に打って出ます。
享保15(1730)年4月21日、今までの方針を大転換し、富くじを公認としたのです。

何と寛容な!さすが吉宗公!…と言いたいところですが、吉宗もただ庶民の娯楽のためにそのような政策を取ったわけではありません。

実はこの頃、幕府の財政は大変に厳しいもので、その立て直しは急務でした。
吉宗は「米将軍」の名の通り、米の増産と価格安定という相反する現象を制御するという難しい経済政策を一定程度成功させた名君ですが、収入が劇的に増加したわけではありません。

幕府財政にとって、何より「支出の削減」は急務だったと言えます。
幕府財政にとって大きな負担になっていたものの一つが、「寺社の修繕費用」でした。

神仏に祈り、国を守護する寺社ですから、幕府としてもないがしろにするわけにはいきません。
つまり、一方的に修繕費用を減らしたり打ち切ったりするわけにはいかない…。

そこで吉宗が考え出したのは「修繕費用の自己調達」です。
富くじを寺社が行うことで、それらの資金を自己調達させ、幕府からの補助金を減らす算段でした。

幕府が「公認」した富くじ、その最も盛んにおこなわれた場所は、谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神の三か所。
「江戸の三富」と呼ばれ、大変な賑わいだったと言われています。


3、ところで、その賞金は?

かくして江戸時代中期に一大ブームになった江戸の富くじ、当選金はどれくらいなんでしょうか…。

記録に残っている最高額は、1000両

今の金額でいえば8000万~1億円くらいです。うーん、まあまあかな??
ただし、手数料諸々が差し引かれるため、実際の支払いはその7割ほど。
つまり6~7000万円くらいだったということになります。
現在の「ドリームジャンボミニ」くらいのイメージですね。

ただ、これは最高額で、相場としては100両程度。
つまり当選金額は800万~1000万円、支払いは6~700万円くらいということになります。
以外に地味な金額…。

そして驚くのは、富くじ1枚の購入金額。
一般的には金一分(1/4両)なので、だいたい1枚2万円くらい。
今の宝くじに比べるとかなり高いですね。
購入金額が高いので、共同購入のシステム(割札)もありました。

金額は地味に見えますが、第二次ブーム(江戸時代後期・文化文政期)の絶頂期になると、その開催頻度が半端ではありません。
江戸だけで見ても、3日に1回はどこかの寺社で富くじの抽選が行われていた状況でした。

富くじは小説や落語のネタにもなり、庶民の娯楽として根付いていたことが伺えます。


4、富くじバブル、はじける

しかし、ブームの過熱は様々な社会問題を引き起こしました。

・富くじに熱中しすぎて破産する者が続出
・違法な富くじ(陰富)の流行
・大名や旗本まで富くじに手を出すように
・富くじ興業の飽和状態(公認の富くじは赤字に)

など。
特に、「公認の富くじが赤字」という状況は、幕府としても看過できませんでした。

そしてついに、水野忠邦

が推し進めた天保の改革のもと、富くじは天保13(1842)年、ついに全面禁止となります。

ただ、富くじはその後も地方で、開国後は外国人居留地でも、小規模に、形を変えて明治時代を迎えてもなお生き残ります。
庶民に根付いた娯楽の火は、幕府や明治政府の禁令をもってしても完全に消すことは難しかったようです。


というわけで今日は、富くじの歴史について触れてみました!
現在の宝くじとはまた違った庶民の娯楽。これはこれで楽しそうではあります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


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