無題

彼の名は「京屋の伝蔵」

今日は「骨董の日」
江戸時代のある戯作者が遺した考証随筆『骨董集』の中に「文化十二乙亥九月二十五日」との日付が記されていることにちなんで、骨董・美術品のオークションを手がける株式会社古裂會が記念日に制定しました。
さて、その作家とはいったい誰なのでしょう。

江戸時代末期、日本を訪れた外国人は、日本人の識字率の高さに驚愕しました。
江戸時代の庶民にとって、「文字」は身近な存在だったのです。
それを支えていたのは、江戸時代の教育制度(寺子屋など)、社会制度(徒弟制度)など。

そして、その識字率の高さから流行していた商売がありました。
それは「貸本屋」です。

貸本屋

今の図書館とは少し違い、どちらかというとTUTAYAのようなものを想像していただけると良いと思います。
当時はまだ書籍は高価で、庶民にはなかなか手が出ない存在でした。
そのため、市価の10%程度で本を貸す、貸本屋が多く存在したのです。
店舗だけではなく、上のような行商スタイルのものもありました。

貸本屋がどれくらいは流行っていたかというと…
1800年頃の貸本業者の数はおよそ650。
平均的な貸本業者は、150人弱くらいの得意先があったとされています。
単純計算すると、およそ10万人が貸本屋を日常利用していたことになります。
ちなみに、当時の江戸の人口が約50万人とされているので、読書好きな方はかなりの割合いたということになりますね。
江戸の庶民にとって読書は身近な娯楽だったと言えそうです。

さて、そんな時代に一人の有名作家が誕生します。
1716(明和6)年、彼は江戸深川の質屋、岩瀬伝左衛門の家に生まれました。
本名は「岩瀬醒」といいます。
若くして文才を発揮した彼は、その後京橋に転居、18歳で作家デビューします。

彼が最初に書いたのは「黄表紙」
その後彼は、「合巻」「洒落本」などの執筆に精力的に取り組みます。

・黄表紙
洒落と風刺に特色をもち、絵を主として余白に文章をつづった大人向きの絵物語。表紙が黄色だったことからその名がついている。

・合巻
元々短編だった黄表紙などが内容の複雑化に伴って長編となり、数冊合わさって作られたもの。内容は敵討ちなど、伝奇的な傾向がみられる。

・洒落本
吉原などの遊里を中心に生まれた美意識、「通」の概念を、会話中心の文体でコミカルに描いたもの。

彼のペンネームは…江戸時代を代表する作家のひとり、「山東京伝」です。

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彼のペンネームは、「江戸城紅葉"山"の"東"に住む"京"橋の"伝"蔵」を略したものとされます。

彼が生涯に出版した作品は300を優に超えます。
これは、同時代の作家の中でも突出して多く、彼の多作ぶりと卓越した創作意欲が伺えます。

作品は数多いのですが、『仕懸文庫』『江戸生艶気樺焼』『通言総籬』などが代表作。
江戸の遊里を描いた洒落本は大ヒットし、その人気は絶頂を迎えます。
ちなみに、山東京伝の版元を務めたのは、近世を代表する出版プロデューサー、「蔦屋重三郎」「鶴屋喜右衛門」でした。

しかし、松平定信

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の「寛政の改革」で出版統制が厳しくなると、京伝はその作品を咎められ、手鎖の刑50日(50日間手錠をはめられる刑罰)に処せられます。

彼はその後、きざみタバコや喫煙具の販売に専念します(元々、作家と兼業していました)。
ちなみに、京伝は現在の銀座一丁目に紙製煙草入れ店を開き、自分がデザインした煙草入れを大流行させるなど、この分野でも多才ぶりを発揮しています。
一時は筆を折った京伝でしたが、その後、読本作家、歴史研究家として文壇に復帰します。

波乱万丈な作家人生を歩んだ京伝でしたが、やはりその真骨頂は洒落本。
勿論彼自身、遊里に通じており、作品はその経験をもとに描かれています。
彼は吉原などの遊里に頻繁に出入りするだけではなく、2度の結婚は、両方とも吉原の(元)遊女がその相手。つまり「身請け」ですね。

京伝は、若い頃からお気に入りの遊女のもとにひたすら通いつめていたそう。
最初の妻、「菊」は、元は「菊園」という遊女で、京伝がそのもとに通い始めたのは19歳の時(!)。
菊はその後、30歳で病死してしまいます。
2番目の妻は「百合」。元は「玉ノ井」という遊女(の高位=花魁)でした。
京伝が通い始めたのは37歳の時で、あまりに気に入ったため、1か月で家にいるのが数日という状態になってしまったとか。
なお、結婚後の京伝と百合は仲睦まじく、京伝が1816(文化13)年に亡くなると、ひどく落ち込んだ百合も、後を追うようにその2年後に亡くなってしまいます。

ちなみに、吉原で遊ぶことは勿論、当時の遊女の身請けには莫大なお金(花魁クラスになれば、現在の億単位のお金)が必要でした。
そういったことに、京伝は惜しみなくお金を使いました。

一方で、それ以外の部分では質素な生活でした。
衣服は貰い物(とはいえ、富裕な町人からのものなので良いものではあったのですが)、友人と飲食に出かける時には「割り勘」でした。

当時、仲間と飲み食いをする際に当時は代表者1名が総額を支払うことが一般的でした。
しかし、京伝は総額を出席者の頭数で均等に割って勘定を済ませたのです。
そのやり方は「京伝勘定」と呼ばれ、現在の割り勘の元祖と言われています。
これは、遊び仲間の曲亭馬琴によれば、仲間内での金銭トラブルを避けたかった、そしてサバサバした付き合いを好んだからだといいます。

さらに京伝には生涯大切にしていたものがありました。
それは、9歳の時に父にプレゼントされた文机。
彼の執筆活動を支えた文机の手前の縁は、京伝の身体が擦れたことから、手前の縁が1㎝ほどすり減っていたと言われています。
亡くなる前日に彼が詠んだ歌は、
「耳をそこね 足もくじけてもろともに 世にふる机 なれも老いたり」
(耳が遠くなり、足腰も弱った自分と同じく、慣れ親しんだ机も古くなった)

吉原で遊び回り、遊女を身請けする京伝と、質素に暮らし、一つの机を生涯使い続ける京伝。
この人物としての幅の広さも、山東京伝の魅力の一つと言えそうです。

ちなみに彼の死因は「脚気」
ビタミン欠乏症の一種で、玄米ではなく白米を食べるようになった江戸の武家・町人層で流行し、別名「江戸わずらい」とも呼ばれていました。
享年55歳。戯作・煙草入れなど、江戸の町にいくつものブームを巻き起こした山東京伝。
その最期も「流行」に乗ったものでした…。

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