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エッセイ『ff7リバースは「原作」の時点で失敗している』

『ff7リバースは「原作」の時点で失敗している』というタイトルなわけですけど、それは別段、売れる・売れないか、をもってして失敗云々、と言いたいわけではないです。

売れた、としても、「間違った成功体験」になるかもしれないし。
売れなかった、としても、「間違った失敗体験」になるかもしれないし。

僕が失敗している、と思う個所は、ストーリー部分であって、かつ、現実の時流とピントがズレている部分をもって、失敗の定義としています。

端的に言えば、ライフストリームという、「なんでもあり」というチート設定一点において、2024年の現実の死生観とズレているので、失敗している、と言っているわけです。

どの立場でモノを言っているのか、といえば、この目次一というペンネーム以前のペンネームの時から、即ち、2012年辺りから、10年以上、曲がりなりにも、一創作家として、小説を含め、音楽、コント、漫才の台本、漫画、などなど、一般書籍化されて印税を頂いている作品も込みで、構築性をもった諸作品を積み上げ、ネット上に公開し続けてきた立場から言っている、ということになりますね。
そもそも、断筆宣言した、最終小説『全自慰文掲載』(以下略)も、それまで構築性をもった小説作品を何作も積み上げてきたからこそ許された「ワーストなファーストテイク」という「逆張り」ですから、さすがに、それまで何一つ作品を残していなかったら、許されない暴挙です、さすがに。

ま、だから、といって、それが効果的に働いたかどうか、は知りませんし、僕は自分の作品が優れている、とも、全く思いませんし、別段、創作家以外も好きに語っていい、とも思っていますけどね。
むしろ、僕個人も、創作家としては、オタク第一世代から引き継いだ引用とコラージュという方法論に留まってしまったという側面だけでみても三流ですし、オタク第三世代全般においても、やはり、何一つ「頼もしい創作」≒「架空の『大きな物語』」を作れなかったかもしれないなぁ、という自責の念の方が強いぐらいです。

本題です。
僕はff7の「原作」を中学3年の時、リアルタイムでプレイした世代です。
が、「原作厨」というわけでもないのです。
要は、ff7に対して、「原作リアルタイムの世代」だけど、「原作」自体を「スッチャカメッチャカな失敗作だ」と思っている層もいる、ということであり、僕自身がそうだ、というわけです。

かつ、僕自身、少年時代はゲームをライトユーザーとして色々やりましたけど、20代以降は、ほぼ、ゲームしなくなった、という経緯だけ見ると、当然、ゲーマーではないですね。
かといって、当時のゲームやゲーム体験が「懐かしい」という感慨も、嘘でしょう。
この「懐かしい」という感慨に対する嘘も、常々、気になっていたことで、「懐かしい」という感慨は、「既にこの世に存在しない、失ったもの」(死んでしまった、とか、もう二度と会えない、など)であることが、対となる条件だ、と思っているからです。
90年代の音楽を「懐かしい」と口々に言いますが、itunesやyoutubeに残っている時点で、それは「失った記憶」ではなく、「薄まった記憶」に過ぎません。

話を元に戻して、二体の日体大、――あ、ごめんなさい、昨年のm-1グランプリの令和ロマンの一回戦まで戻ってしまったわけですが、とにかく、スターウォーズシリーズのフォースのモロパクリであるライフストリームという「設定」のせいで、全部、「どうでもいい話」になってしまった、と思います。

別段、時流に沿っていなければいけない、というわけではないですが、無視することも出来ない、と考えます。
Twitterの内容と重複しますが、現実に、ウクライナ侵攻、安倍晋三銃撃事件、2023年パレスチナ・イスラエル戦争、能登半島地震、――などを目にしてきた、2024年を生きる僕らの「死生観」は、
・「人生の一回性」(もう一回、生き返る、なんてあり得ない)
・「人間の即物的な脆さ」(生身の人間が、呆気なく死に、死体というただのモノになる、という事実)
にピントが合ってますから、
「実は生きてました」とか「生まれ変わろう」とか「実は死後も何度もループできますよ」系の設定やお話を提示されたところで、
「なに、綺麗事、言ってんだい? 阿保らしい」
としか映らない、と思います。

この「設定」を「原作」の時点でどーにも動かせない時点で、今の時代における、「求心力のある物語」になりようがないんですよ。
それを、
「ま、B級映画的に楽しんで下さい!」
なら、まだ、分かりますが、
ff7リバース は、
「深刻な物語でございます」
っていう態で、打ち出している時点で、相当「時代感覚」とズレてますよ。

かつ、ストーリー面も、「原作」の時点で、失敗している、と思います。
これもTwitterでも言ったことなので、あまりくどくど書きませんが、例えば、
クラウドの主題≒『攻殻機動隊』、もしくは、『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジ君的な、自分探し、だとする。
セフィロスの主題≒映画『フランケンシュタイン』的な、悲しき化け物から見た、人間の愚かさ、だとする。もしくは、映画『seven』的な、超越者による、人間の愚かしさ、だとする、と。
エアリスの主題≒映画『時をかける少女』的な、もう二度と会えない、会ったとしても、お互い、忘れている、という切なさだとする、と。

これら、個別にある主題は、個別に一つの作品として絞って扱った方が、当然、ストーリーとしてのまとまりは、良くなるわけです。
逆に言うと、『攻殻機動隊』の主題と、『フランケンシュタイン』の主題と、『seven』の主題と、『時をかける少女』の主題を、無理矢理くっつけても、
「こりゃ、スキのない、よく出来た物語だな」
になるわけがないんですよ、構造的に。

しかも、ff7を作っている人たちは、オタク第一世代の人たちなので、他にも、様々なサブカルチャーにおけるオタク的知識のアレコレを、上澄みだけ引用してきて、それを、ツギハギ的にコラージュしているんですよ。

例えば、ま、全編、スターウォーズですよね、とりあえず、っていう。
ライフストリームはフォースだし、ソルジャーはジェダイ騎士団だよな、っていう。
スターウォーズやスタートレックの影響は、別枠として取り上げていいぐらい、ffシリーズに引用されているから、枚挙に暇なし、言い訳ご無用、って感じですけどね。
ff1の時点で、あらすじが流れるやつ、あれ、スターウォーズの冒頭で流れるあらすじのやつ、やりたかったんだな、って思うし。
ff2のお姫様ポジのヒルダのモデル、ep4のレイア姫だろうし。
ff3で「帝国軍」出してるし。
ff4のカインはダースベイダーだし。かつ、飛空艇の名前、スタートレックに出てくる「エンタープライズ号」まんまパクってるし、と。
ff6に至っては、最終的に使う飛空艇の名前、「ファルコン号」、これ、スターウォーズのハン・ソロの「ミレニアム・ファルコン号」から取ってるし、と。
なんなら、セッツァーのモデルもハン・ソロだよね、とか。――当然、アルテマウェポン、モロ、ライトセーバーですから。

クラウドの絵的モデルは、ドラゴンボールの悟空と、るろうに剣心の斬馬刀と、漫画『聖闘士星矢』の天馬っぽさ、それに、tvドラマ版の『ロボコップ』っぽさを足したんだろうなぁ、とか。
ティファの絵的モデルは、格闘ゲームのkofの不知火舞っぽいな、とか。
セフィロスの絵的モデルは、格闘ゲームのサムスピの牙神幻十郎に、漫画『聖闘士星矢』のシャカっぽさ、を足した感じなのかなぁ、とか。
バレットの絵的モデルは、86’の映画『片腕サイボーグ』まんまだな、とか。
シドの絵的モデルは、67’の『続・夕陽のガンマン』における、クリントイーストウッドっぽいよな、どう見ても、とか、
レッド13の絵的モデルは、漫画『うしおととら』の、とら、っぽいなぁ、とか。
ヴィンセントのリミット技は、漫画『デビルマン』まんま、やるんだ、と思ったし。
ジェノバの絵的なモデルは、72年のドイツ映画『メトロポリス』まんま、だったり。
神羅のスカーレットのモデルが、リドリースコット監督の『氷の微笑』の女主人公ぽかったり。
神羅ビルのバイクは、漫画『akira』だったり、そこから、高速道路に出てのカーチェースが、まんま映画『ターミネーター2』だったり。
――少し蛇足になりますが、実際、格闘ゲームキャラからのキャラデザインの引用は、確信犯的な気がします。
格闘ゲームのコンボの爽快感取り入れたい、という思いが、ff7における、リミット技の乱舞技に繋がっているように見えるから、です。
さらに、ff7が出た後、『エアガイツ』という格闘ゲームが出ていますから。
さらに、裏・ff7のゼノギアスでは、格闘ゲームのシステムの一部を活用している上、技においても、主にサムスピ系のオマージュと思しき必殺技が出てきますし、かつ、次作のff8で、サイファーというキャラが出てきますが、あれ、誰が見ても、格闘ゲーム『餓狼伝説』のボスであるギース、まんま、です。キャラクターデザイン的にも引用しているし、ギースさんは、最後、「うわあああああ」と言いながら落下していく、というシーンがあるんですが、ff8、サイファーは、「ぎにゃああああ」と叫びながら吹っ飛ばされていくシーンがあります。――いいね、確信犯!

とにかく、多数の引用とコラージュというミクスチャー、それが彼ら世代のクリエイティビティの「可能性と限界」であり、かつ、『akira』がジャパニメーションとして世界的に認知されていた当時、世界市場をマーケットの視野に入れていたスクウェア的には、そのミクスチャー具合は「売り」になっていたのでしょうが、それらは、「世紀末」による終末感に後押しされていたから成立していたマジックであって、今はもう、時代が変わって、そんなマジックは、かかっていないんです。

よって、今見ると、「設定」は幼稚。
今見ると、「ストーリー」も幼稚。
しかも、このff7リバースがやろうとしている話は、
『セフィロスによる「人類保管計画」』
というね。
え? 今更? っていう感は否めないわけです。
従って、逆に言うと、「原作のff7がすごかった!」と言っている原作厨の人というのは、
「当時の『エヴァ』、衝撃的だったよね!」
とか、
当時の時事ネタで言えば、
「当時、オウム真理教の事件、衝撃的だったよね!」
って、言っているのと同じ文脈なんですよね。
じゃあ、今更、2024年に、もっともらしく、エヴァンゲリオンの新作、作り直して欲しいって思います? って話になるわけで。
じゃあ、今更、2024年に、もっともらしく、オウム真理教の「物語」、やって欲しいって思います? って話になるわけで。
勿論、制作陣の皆さんは、「これ、時代的に苦しいな」と思いながら、作ってらっしゃるとは思いますよ。
そりゃ、僕が携わっている小説などのモバイルメディアと違って、ゲームっていうメディア自体、そんな急激に、時代性に合わせて、軌道修正できるメディアではないですから。
ゆえに、Ps5というプラットフォームの敷居の高さは大前提として、
①「次に着替えが待っているんだよね」と思えちゃうコント的な安い「どうでもいい物語」と、
②キャラクターと世界観と、
③ゲームプレイの面白さ、
この3点で、どれだけのユーザーを獲得できるか、にかかっているのだ、と思うわけです。

で、「原作」のff7をリアルタイムでプレイした年代っていうのは、ご存じの通り、もう40付近のおじさん・おばさんで、実際、このff7リバースの、主な購入層なんですよね。

これが、完全に若い人向け、とかだったら、よかったんですけどね。

昨年の映画でいえば、『ゴジラ-0.1』で「ゴジ泣き」できるような、若々しい感性の人たちばっかりだったら、よかったんですけどね。

……全員とは言いませんけど、間に受けて感動するのは、無理なんですよ、40付近のおじさん・おばさんたちは。
映画『ゴジラ-0.1』観てて、
「え? この疑似家族の、説明会話の最中、ゴジラ側は、何してるわけ? 待ってくれてんの?」
とか、
「え? 戦争直後、ってことは、ghqは? マッカーサーたちは、どこで、なにしてたん?」
って思っちゃうように、
「え? なんで、クラウドたちのオープンワールド的な冒険を神羅側は許してるわけ? 神羅側、何してるの?」
とか、
「っていうか、神羅っていう一社で、この世界、成り立っているわけ? どういうこと? 資本主義社会としてもおかしいし、中世世界の名残りとしてもおかしいし、冷戦後の世界としてもおかしいし、近未来sfとしてもおかしいでしょ」
とか、
「え? ジュノンって、軍事基地なんだよね? だったら、ミッドガルから、すぐ軍事物資を運ぶための道路作ってるはずでしょ? 道路は? 車は?」 
って思っちゃう可能性が高いわけですよ。

その後の人生で、どの人も、ってわけじゃないけど、それぞれ、色々な分野の色々な作品を観てきてる分、
「自分の実人生に刺さらない話」≒「どうでもいい、真に迫らない話」
と、
「自分の実人生に刺さる話」≒「どうでもよくない、真に迫った話」
だったら、後者を選ぶ、というか、そっちの方しか感心しない可能性の方が高い、ということです。
これは個人的な遍歴ですけど、その後に経験した、
映画『桐島、部活辞めるってよ』を観て、「どうでいいじゃねぇか、こんな話」って、言えなかった、さすがに。
映画『ブルーバレンタイン』を観て、「どうでいいじゃねぇか、こんな話」って、言えなかった、さすがに。
映画『ジョーカー』を観て、「どうでもいいじゃねぇか、こんな話」って言えなかった、さすがに。

それに比べて、実は運命の特異点が、とか、いや実はエアリスはさ、とか、「現実にありもしない問題定義をして深刻気に悩む系の話」っていうのは、もう「幼稚」過ぎてね、話にならんわけです。
幼稚なことを複雑化しても、幼稚なことには変わりないですからね。
エアリスが死ぬシーンがトラウマだ、なんだ、って言っている人は、ff7の明らかな元ネタの一つ、95の映画『seven』のラスト、観れませんよ、一生。
Ff7における、セフィロスの犯行シーン全般、血を追っていくシークエンスとか、ミドガルズオルム串刺しの犯行現場感は、完全に、95年のデヴィット・フィンチャー監督の『seven』からの引用ですから。

だから、
『幼稚でもいいです、自分は、ストーリー、わくわく楽しめるんで』っていう層と、
『いや、ストーリーなんてどうでもいい。ゲームプレイが楽しけりゃいいから』っていう層が、
ff7リバースを買うんでしょうね、としか言えないわけです。

Ps.
こう書いていると、「アンチ」だろ、と括られるかもしれませんけど、そうじゃないですよね。
去年、シン仮面ライダー、ゴジラ-0.1、観ましたけど、結果論的に言うと、初代のリメイクだったんですよ、どっちも。
どの業界でも、広い意味でリメイクばっかり、と言ってもいいぐらいです。
で、客層は、だいたい、以下の3つに大別される、と思います。

①ゴジラシリーズ好きの感想。
②山崎貴監督ファンの感想。
③ふらーっと観に行った人の感想。

どの客層の人も、「良い部分」も「ここはダメな部分」も語っていいわけだし、語ってもあまり「アンチ」とは言われないんですよね、映画シーン・映画評論シーンでは。
っていうか、普通に、友達と話し合うじゃないですか、映画、観た後って。
「あそこ、良かったよね」
とか、
「あそこは、ちょっと、リアリティーに欠けてたね」
とか、それが、普通じゃないですか。
で、ff7も、ここまで映画的なフォトリアルな表現を大々的に打ち出しているんですから、かつ、映画以上に金とってるんですから、色々、細部の不自然さを突っ込まれても仕方ないんですよ。

なおかつ、僕みたいな老害の意見をね、
「おまえの言う事なんかきかねぇで、ff7リバース、買って楽しむぜ」
つって、乗り越えていけばいい、と思うんですよ。
踏み台の原動力にして、どんどん買えばいいじゃない、と思うんですよ、いや、本当に。
ちなみに、僕は、
「自分が求めていたものと違った」
とは、全然思わないタイプで、
その作品を享受した時点で、
「ふむふむ。良いヒントをもらえたな。じゃあ、この作品、自分で解釈し直して、物語を作ってみよう」
と思うタイプなので、良いヒントを貰えそうにもない、ff7リバースは、買わないです。
動画も観ないです。

――これは、本当に、いや、自分は創作者だから他とは違うんだマウントではなく、本当に、そんな、差別的な意味ではなく、

「俺たちは待ってるんだ! 期待しているんだ! だから、自分たちを楽しませてくれよ!」

という、ただ、他者に期待しているだけの、消費者マインドを持っている人が、最近、多いんだな、とつくづく痛感させられましたね。〈了〉

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