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届かないタイプの夢

ディズニーランドに行く。
娘の初めてのディズニー。4歳になる前に行けば安くですんだのに、わざわざ4歳になってから、入園料を払って行くディズニー。
できるだけ楽しんでもらいたくて、日夜情報を集める父母。

そうして、何日も前からディズニーを楽しみにしているご家庭はきっとこの日本にごまんとあるだろう。
なんせディズニーリゾートには夢がある。子どもが目をキラッキラに輝かせて夢をみる夢の国。
私もだいすき。一生あそこに住み着きたい。ずっと夢の国に居たい。

そう、ずっと。
仕事を辞めて大学院に通い、今の夫と遠距離恋愛をしていた時に行ったディズニーでは、本当に帰りたくなさすぎて帰る前からちょっと泣いた。

夢を与えるというのはときに残酷なことである。
夢のような世界を見せることで、浮かび上がる現実の苦悩。手を伸ばしても夢には届かないという悲しさ。ファンタジーはファンタジーの世界であって、現実に溶け込むことはない。ファンタジーに比べて平凡なこの毎日は、なんて退屈なことだろう。

さいきん娘は、とある映像コンテンツのキャラクターのぬいぐるみを手に入れた。ご飯中も寝るときも、トイレに行くときだって、四六時中それを抱きかかえて生活する娘は思っているに違いない。映像の中のこの子は喋るのに、ぬいぐるみのこの子は喋らないんだなあ、と。

もちろんそれでいい。それが成長するということで、そこを一緒くたにしてしまうとそれは「現実検討ができていない」ということになり、それはまた別の問題が発生してしまうのでそれでいい。

それでいいのだが、では、夢を与える、夢を見せるとはなんなのか。

大人になるということは、現実のフレーム(枠組み)を受け入れることである。今我々が見ている動画コンテンツだって、この地球上の別の場所ではその存在そのものがファンタジーなわけで、それが実際に実在しているこの日本ではそれが現実、というただそれだけのことでしかない。もし、件のぬいぐるみが本当に現実世界で動き出したらそのときは、子どもたちに与えるファンタジーがまた更に強化されて、新たな「ありえない素晴らしいもの」が「ファンタジー」として君臨する。ただそれだけ。それがファンタジーである。

そうして人は夢を、ファンタジーを追いかけ続ける。

たぶん、死が日々の生活のすぐ隣の人生の伴走者であるのだとしたら、夢やファンタジーもまた同様に、人生の伴走者なのだと思う。


夢の国でみる夢は、夢でしかない。
届かなくて悲しい。
なのに私達は夢を見にいく。子どもたちを連れて行く。

それはたぶん、人生の伴走者が「死」だけでは生きていけないから。子どもに夢をみる力を、もっと平たく味気なく言うと、現実逃避する力を備えさせてあげたいから。

子どもの人生に、夢とファンタジーの伴走者が居続けますように。
夢を見ることの幸せを、その小さな体がいつまでもいつまでも覚えていられますように。
あなたを救うファンタジーが、いつもそばにあることを思い出せますように。

夢の国が与える夢は、届かないタイプの夢。現実に交差しないかわりに、ずっと横を並行して走ってくれるタイプの夢。

だからね? パパ。
娘の日常に夢が伴走できるように、たくさん夢を持って帰ろう。
たくさんたくさんお土産を買って帰ろう。
ね?


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!