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【小説】 鎮痛剤

 その患者は、いつまでも鎮痛剤を欲しがった。

 胸の痛みを訴えては、なんども入退院を繰り返し、そのたびに多くの検査を受け、そしてどこにも異常は発見されなかった。医師たちは困り果て、患者の求めに応じ、仕方なく鎮痛剤を処方することもあった。だが結局、そのどれもが問題を解決してはくれなかった。

 歳は、五十すぎ。白髪まじりのその女性は、背筋をピンと伸ばし、品のある話し方をする人だった。
 医師たちは、胸の痛みは身体性ではなく、心因性なのではないかということで、彼女に精神科へ行くよう勧めた。そして、精神科医師による投薬と、心理士によるカウンセリングが開始された。

 カウンセリングの中で彼女は、自分がシングルマザーとして、大切に一人娘を育て上げたことを誇らしげに語った。生まれてきてくれて、それはそれは嬉しかったこと。夫の不倫、そして離婚も、娘がいたから気丈に乗り越えられたこと。幼き日の、娘のまっすぐな瞳と、「ママ」と呼ぶ声、つなぐ小さな手の感覚を、今でも思い出すこと。そんな娘も今は成人して、単身アメリカで生活していること。不思議なことに女性は、娘の話をしている間は胸の痛みを訴えることがなかった。痩せこけた頬を上気させ、それは幸せそうに娘との思い出を語るのだった。

 しかしそれも、彼女の誕生日が近づくにつれて雲行きが怪しくなってきた。「誕生日なのに、娘に会えない。辛い」と言っては昼夜かまわず泣き、ふさぎ込み、しまいには一切食べ物を口にしなくなり、何度目かの入院となった。
「食べ物はいらないから、鎮痛剤をください」
 苦しそうに胸を押さえては、いつもの言葉を繰り返す。ある夜、彼女は泣きながら若い看護師に告白した。
「私は小さい頃から、ずっと死にたいと思っていたんです。胸の中がからっぽで。そういう感覚を抱えて生きてきたのです」
「今も、そう感じますか」
「ええ、感じます。だからおねがいします。鎮痛剤をください」
 看護師は、鎮痛剤は渡せないと優しくなだめ、夜通し彼女をなぐさめた。そして、医師とカウンセラーに、彼女の死にたさについてを報告した。

 迎えた、彼女の誕生日。症状の悪化した彼女は、朝から朦朧として、宙に向かって何かを語りかけていた。
「プレゼント? ありがとう。これ、静香ちゃんが描いてくれたの? 嬉しい。だいじにするね」
 そう言って、胸の前で何かを抱きしめる。
「おいで。静香ちゃんは、ずっとママの宝物よ。ありがとう」
 もう一つ、彼女は胸の前に何かを引き寄せて、朝日の照らす静かな病室で、幸せそうに何度も何度も、その何かを撫でていた。

 不意に、病室の前が騒がしくなった。
 コンコン。
 ガラリと扉が開き、おはようございまーす、と看護師が入ってくる。
「山守さん山守さん。来てくれましたよ。ほら、娘さん。わざわざ帰国したんですって」
 看護師の後ろから、ひょこりと若い女性が顔を出す。母親似だろうか。立っていても姿勢の良さがにじみ出ていた。
 「ママ、久しぶり。入院だなんてどうしたの」
 自分にハグをしようと近づく娘の姿を捉えて、その患者は喜んだ。
「ああ、ああ。会いたかったわ、私の鎮痛剤」
 視線は宙をさまよい、どこか恍惚とした表情で、患者はハグを受け止めた。


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