【小説】 不確定要素

 研究室なんて、どこでも良かった。
 つい一週間前までは。

 サークルの緑川先輩の紹介で、心理学実験の被験者になったのは、二週間前のこと。
「まだ本番の実験じゃなくて、準備実験、ってやつらしいんだけど。同じ学部だし、山崎受けてくんない? 謝礼は一時間で千円だって」
「いいっすよべつに。先輩はもう受けたんすか?」
「いや、俺はダメなんだって。俺とはもう『友達」っていう関係性ができてるから、そういう人を被験者にするわけにはいかないらしい。データにひびくんだとよ」
「あー、なるほど、心理学っすもんね。そういうのあるんすね、きっと」
 今年の秋には、三年から進む研究室を決めなくてはいけない。心理学研究室も気にはなっていたところだから、ちょうど良い、ついでにどんなところか見てこよう、と思い快く引き受けた。

 実験者と連絡を取りあい、指定された日時に待ち合わせ場所に向かったのが、今からちょうど一週間前のことだった。

「こんにちは。心理学研究室の羽根田と申します」
 実験者としてそこに居たのは、長い黒髪に眼鏡をかけた、胸の大きな女性だった。顎にほくろがある。黒のカーディガンのボタンが、今にもはちきれそうだった。
「あっ、あっ、どうも、こんにちは。山崎です。あっ、どうも」
 想定外の胸の大きさに、分かりやすく動揺してしまう。なぜだか目を見て話せない俺は、顎のほくろを注視していた。
 今日はありがとうございます、どこの学部なんですか、行きたい研究室は決まってるんですか、といった質問を受けながら、実験室に誘導される。俺のようなひよっこ二年生が、普段ぜったいに立ち入らない場所だ。

 通されたのは、小さな防音室。今どき見ないブラウン管のパソコンモニタが、机の上にでんと乗っかっていた。その手前に、ボルトで机に止められた、拘束具のような装置。
「まず、同意書に署名をしていただきたいんです」
 言われるがまま椅子に座り、説明を受けて用紙に署名をする。
「それと、判子は持ってきてもらえましたか」
 しまった、と思った。判子を持ってきてくださいと言われていたんだった。
「あっ、すみません、忘れちゃって。あ、どうしよう、血判でもいいですか」
「ケッパン? じゃあここも、サインで大丈夫です」
 俺の渾身のボケは羽根田さんには拾われないまま、むなしく研究室の防音壁に吸い込まれていく。いつも以上に汚い字で、山崎、とサインしていたら、羽根田さんに「この部屋、暑くないですか」と尋ねられた。
「大丈夫っす、特に暑くないっす」
「そう? 私はちょっと暑いかなあ」
 そう言うなり、羽根田さんはおもむろにカーディガンのボタンを外し始めた。見てはいけない、と思っていても、磁石のように視線が吸い寄せられる。
「あっ、えっと、その、エアコン、下げてもらっても大丈夫っすよ」
「ううん、大丈夫」
 そう言う羽根田さんは、こともあろうにカーディガンの下のシャツのボタンまで外し始めた。ひとつ、ふたつ。視線が宙をさまよう。
「や、やっぱりおれも、暑くなってきたかも、下げましょう、温度。ね。あっちい」
 聞こえているのかいないのか、羽根田さんは手を止めない。みっつ…よっつ。これでもかとざっくり開いたシャツの間から、谷間がばばんと顔を出した。大きい。明らかに胸が大きい。煩悩が俺の頭をもたげ、首を動かさないまま、視線だけが右往左往した。
「これで大丈夫。じゃ、実験の説明をするね」
 そう言って、眼鏡の奥でにっこり笑う羽根田さんと目が合い、その瞬間、俺は恋に落ちたのだった。

 実験の内容は、いたってシンプルなものだった。先ほど拘束具だと思ったものは顎のせ台で、そこに顔を乗せてモニタを見て、モニタの左右に顔写真が同時に現れるので、笑っている方をキーボードの左右ボタンで押す、というのを繰り返せばよいとのことだった。
「じゃあ、準備はいいかな。電気消すね」
「えっ? あ、はい」
 真っ暗闇に、モニタの光だけが明るい。その光が、斜め後ろに座る羽根田さんの谷間をも照らしているのかどうかを確認することは、紳士な俺にはできなかった。実験中ずっと、俺の全意識は斜め後ろに注がれていた。

「お疲れさまでした。じゃあ、次は三日後で」
 電気がついて明るくなっても、羽根田さんの谷間は依然としてそこにあり、俺はひたすら顎のほくろに集中した。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 その日分の謝礼を受け取り、俺は実験室をあとにした。

 二回目の実験も、同じような内容だった。暗い狭い部屋で、斜め後ろに羽根田さんがいると思うと、実験中もなかなか画面に集中することができない。幸か不幸かその日は暑くもなく、羽根田さんがカーディガンを脱ぐことはなかった。前回よりも厚めの、ゆるっとした羽織。それでも俺は、失礼があってはいけないと、羽根田さんを見るときは顎のほくろに意識を集中させていた。
「お疲れさまでした。謝礼です」
 実験が終わると、思い切って俺は羽根田さんに尋ねてみた。
「あ、あの。いま、おれ、どこの研究室にするか迷ってて。あの、よければ、話を聞かせてもらえませんか」
 えっ、と羽根田さんがあからさまに動揺する。
「あー、えっとそれは、想定外。ごめんね、私、想定外に弱くて。でも、うん、だいじょうぶ。このあと教授と、この実験のことで話し合いしないといけないし、えーと、今日は無理なんだけど」
 ずれてもいない眼鏡をなんども押し上げるさまに、胸の奥がぎゅっとなる。
「大丈夫です。じゃあまた、メールで都合の良い日にちを教えてください」
 俺は心のなかで大きくガッツポーズをして、颯爽とその場をあとにした。

 それがちょうど、四日前。
 週末も研究室にいるからと、羽根田さんが指定してきたのは土曜日だった。誰も居ない、しんとした校舎を抜けて、先日使った実験室の横の心理学研究室に顔を出す。中には、羽根田さんひとりしかいなかった。彼女は、「いらっしゃい。そこに座って待っててね」と言って、何やらパソコンをガシャガシャやっていた。言われた通り、部屋の隅のソファに腰を下ろす。研究室をどこにしようか迷っている、と相談を持ちかけたはいいものの、俺の心はすでに決まっていた。羽根田さんのいる心理学研究室に、俺は行く。もう迷いはなかった。

 しばらく部屋の様子を見ていると、作業を終えた羽根田さんがお茶を淹れ、ことりとソファーの前の机に置いてくれた。
「このあいだは、どうもありがとう」
「いえ。なかなか出来る体験じゃないので、嬉しかったっす。おれも、あんな実験してみたいと思いました」
「そう? でもあれ、けっきょく教授に却下されちゃったのよね」
 ずず、と羽根田さんがお茶をすする。やっぱり今日も、ほくろがセクシーだ。
「えっ。うまく行かなかったんすか」
「まあね。有意差がでなくって」
「えっと…あれって、おれよく知らないすけど。笑った顔への反応が一番早いだろう、みたいな実験だったんすか」
「あれっ? あのとき私、説明しなかったっけ」
「なにをですか?」
「実験の概要。あれはね、モニタでやってもらったことは関係ないの」
「えっ」
「一日目と二日目で、作業の精度が変わるんじゃないか、っていう実験だったのよ。そっか、あの日、最後に説明しようとして忘れてたんだった」
「一日目と二日目…?」
「そう。あれ、全く同じ内容だったでしょ? じつは、変えてたのは環境だったのよ」
 そう言って羽根田さんは席を立ち、自分のデスクの引き出しから何かを取り出した。
「ほら、これ」
 そこに握られていたのは、胸につければ立派な谷間ができそうな、あられもないシリコン製の偽乳だった。理性もどこへやら、あわてて俺は彼女の胸を見る。ない。あれほど俺に衝撃を与え、イメージし続けていたあの巨乳が、いまやどこにもなかった。
「巨乳だったら、作業効率が落ちるんじゃないかと思ったんだけどなあ」
 おっかしいなあ、と羽根田さんがため息をつく。
「えっ? じゃあ…じゃあ、そのほくろも偽物…」
「ほくろ? どうして? これはもちろん本物よ」
「あっ、それは本物なんですね」
「ごめんね。本当なら実験の終わりに話しておかなきゃいけなかったんだけど。私、言い忘れちゃったみたいで」

 モニタの作業だけの実験なら、本来ああやって部屋の中に私が残るなんてことはないし、緑川くんに被験者になってもらうことも出来たんだけどね、と説明される。けれど俺の頭は他のことでいっぱいだった。あの大きな胸が偽物だったことを、俺は、俺は、どう捉えれば良いのだろう。
「山崎くん、私が巨乳じゃない日も正答率が低くて。というか、一日目より低かったんじゃないかな」
 本当はこんなこと被験者に教えちゃいけないんだけど、と言いながら、羽根田さんがパソコンの画面を覗き込む。そりゃそうだ、と俺は思った。一日目より二日目のほうが、羽根田さんを好きになっていたんだから。
「この研究計画じゃ不確定要素が多すぎるって、教授にも言われちゃった。あーあ。また振り出し。新しいの考えないと」
 ひとりごちる彼女の顎のほくろを見つめ、胸のあたりをそっと見て、またほくろに戻る。再び顔を上げると、眼鏡の奥の瞳に出くわした。
「次は、男性みたいに変装しようかと思って。一日目は女性っぽく、二日目は男性っぽくするっていうのはどうだろ」
 眼鏡の奥の、瞳が笑う。なんだ。胸があってもなくても、けっきょく俺はこの人が好きなんじゃないか。
「さあ。それはそれで、不確定要素が多そうっすけど」
 えー、そうかなあ、と羽根田さんがふてくされる。
「ねえねえ。山崎くんはあの胸、ほんものだと思ってた? 思ってたでしょ」
「いえ」
「うそ、バレてたの?」
「いえ」
 もう、どっちなの、と羽根田さんが笑う。
「どっちでもいいんです。先輩。俺、羽根田さんと研究したいです。お願いします。俺と一緒に研究してください!」
 勢い余って右手を差し出すと、羽根田さんが小さく、「えっ、どうしよう、想定外」と呟いた。

いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!