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【小説】 運命

 千絵と結婚するのに、周囲はみな反対した。なぜなら彼女には、五度の離婚歴があったから。
 よほど性格に難があるに違いない。いやむしろ結婚詐欺だ。それどころか歴代の夫には、毒物を盛られて死んだ者もいるらしい。
 事実に尾ひれがついて、とんでもない噂話をする人まで現れた。しかしそれでも勲は千絵と結婚する意志を曲げなかった。
 これまで女に縁のない人生を歩んできた勲は、あと少しで五十になる。男一人のつまらない生活に色を与えてくれたのは千絵だった。保険の営業として家に来て、親の遺産相続の相談に乗ってくれた千絵は、勲のためにあれこれと尽くしてくれた。家に土地に株券に、遺産をすべて収まり良く収めたころには、勲と千絵の仲はかなり深いものになっていた。

「千絵、話がある」
 そう言って呼び出したのは、幹線沿いにあるファミリーレストランの個室だった。どうしたの改まって、と不安げにこちらを見つめる千絵が愛おしく、勲は膝の上の拳をギュッと握った。
「千絵、僕とけっこ」
「まって!」
 急に千絵が大声を出す。まさか止められてしまうとは思っていなかった勲は激しく動揺した。
「なに?」
「もし、結婚したいということなら、私、あなたに言っておかなくちゃいけないことが」
「あぁ、離婚歴のこと? それなら大丈夫、僕が君の最後の男になるから」
 勲は用意していた言葉をここぞとばかりに披露した。そりゃそうだよな。千絵だって、バツ五のことは気にしていることだろう。ここは男としての度量の広さの見せ所だ。
 しかし千絵の浮かない顔は晴れない。
「そうじゃないの。あ、いや、そうなんだけど、そうじゃなくて。…あの、その…、私と結婚した人は…みんな…みんな…」
 死ぬのか? 
 誰が言ったか分からない、あの噂話が脳裏をよぎる。嘘だ。ニュースで見た連続殺人犯の記憶。何人もの夫に毒を盛り、保険金を手にしていた女の顔。まさか千絵も?
 体を固くする勲に、続く千絵の言葉は予想外のものだった。
「みんな、お尻にイボができるの」
 言葉の意味がわからず、思わず返事に詰まる。
「えっ、イボってあのイボ?」
「そう、あのイボ。ほくろみたいなやつ」
「それって、あの、毒物のせい、とか?」
 思わず口が滑った。毒物? と訝しがる千絵に、慌てて違う違うと手を振った。ひとつ、勲は大きく深呼吸する。
「イボができるくらい、なんだっていうんだ。関係ない。君と結婚したことでできるイボなら、むしろ大歓迎さ」
 よし。勲は再び、男としての度量の広さと余裕を取り戻した。ちょうどウェイターが食事を運んできて、机の上に豪華な定食が並ぶ。さ、そんな怖い顔してないで、食べようよ。勲がそう声を掛けるも、千絵はなかなか箸を取らなかった。
「だけどね、そのイボ、大きくなるの」
 うんうん、そうかい。あんまり大きくなったら皮膚科で切除してもらわなくちゃいけないね。勲は、タルタルソースをつけたエビフライを口いっぱいに頬張った。
「切れないの…」
 小さな声で、しかしはっきりと千絵は訴える。
「手術用のメスが欠けちゃうくらいの…硬いイボなの」
 なんだいそれ。そんなイボがこの世に存在するのかい。それとも、砂糖で出来たメスでも使っちゃったのかな。ズズズ、と味噌汁を流し込む勲を、千絵が泣きそうな顔で見つめる。
「本当なの」
 ゴト、と勲が汁椀を置く。どうやら僕の婚約者は、なにか可愛らしい妄想に取りつかれているらしい。いいだろう。そんな君も大好きだよと言って安心させてあげよう。それが夫としての役目だ。
「大丈夫。取れないなら取れないで、そのイボと共存すればいいだけさ。どんなに硬いイボだって、僕のこの、君を愛する気持ちの硬さには勝てないよ」
「だめなの。それじゃだめなの。だってそのイボ、大きくなるんだもの。私と一緒にいる以上、ずっとお尻で大きくなり続けるのよ」
 まったく、なんて可愛い妄想だろう。結婚の申込みをして、こんなに長々と尻にできるイボの話をされるなんて思いもよらなかった。さすがの勲もいささか飽きてくる。
「そっか。なら大きく育ったイボがクッション代わりになるから、いつでもどこでも椅子なしで座れるね」
 だから大丈夫、僕のお尻のことは心配しないでご飯を食べよう。冷めちゃうよ。
 どうにかこうにか千絵を説得してご飯を食べさせる。食事中も終始落ち着かず動揺した様子の千絵に婚約指輪を渡したところで、「ありがとう、ごめんね…」と彼女は泣き崩れたのだった。

それが、二人の結婚生活の始まり。
 妙なことを気にして結婚を渋っていた千絵だったが、いざ結婚して同じ屋根の下で暮らし始めると、そのような妄想を口にすることはなくなった。あのときはきっと不安だったのだろう。
 僕が惚れた、無邪気で可愛らしい千絵。齢五十にして手に入れた妻との生活に、勲の胸は幸福感でいっぱいだった。
 そんな幸せな時間は約半年間続いた。

「筋肉ついてきたんじゃない?」
 風呂には必ず二人一緒に入ること、とのルールを決めたのは千絵だった。この歳になって、妻と互いに体を拭きあいっこしてるだなんて、友人には恥ずかしくて言えない。しかしそんな秘密ができたのも、勲にとっての幸せの一つなのだった。
 美意識にも目覚めた。若い妻をもらったのだから、自分も若くありたい。勲はジムに通い、筋トレに勤しんでいた。
「そうなんだよ。肩が一回り大きくなったと思うんだ」
 こうして毎日、頑張りを見届けてくれる人が側にいるというのはなんて幸せなことだろう。不貞腐れず、まっとうに、時々パチンコで大負けしながらもへこたれず、地道に生きてきて良かった。勲が感慨にふけっていたその時、千絵が弱々しい悲鳴を上げた。
「あぁ…」
 怯えた目で勲の尻を見上げながら、ヘナヘナと素っ裸で座り込む。どうしてなの、と千絵はつぶやいた。見るとそこには黒いイボ。筋肉とハリを取り戻した勲の尻に、黒々とした立派なイボが居座っていた。
「あれ? ほんとだ。昨日はなかったのにね?」
 千絵は首を振り振り泣いていた。
「さようなら。あなたとはもう、お別れしなくちゃ。このイボは、明日には倍の大きさになってるはずよ」

千絵の言う通りだった。イボはどこから栄養を吸っているのか、日に日に大きくなる。それは細長く育ち、さながら尻尾のような風体で、一週間が過ぎたころには早くもパンツからぴょこんと顔を出していた。
「思っていたのと違った。イボってもっと丸く大きく膨らむのかと思ってたけど、こんなに長くなるものなんだね」
「丸くなる人もいたわ。葡萄のように、粒がたくさんできる人も」
 千絵が悲しそうに、イボでできた尻尾を撫でる。
「僕は諦めないよ。どれだけイボが長くなろうとも、僕は君と離れるつもりはない。そう、たとえイボがこの身を滅ぼそうともね」
 勲の言葉に、千絵が力なく首を横にふる。
「いいえ、あなたもきっと辛いはず。それにあと二週間もしたらきっと…」
「きっと、なんだい?」
「ううん、なんでもない。イボのせいで体が変わっていくのは怖いことだもの。あなたの方からきっと、別れてくれと言いだすはずよ」
 それから千絵はおいおい泣き、その涙は家の至るところに悲しい水たまりを作った。体調が悪くなることも増え、トイレに籠もってしまうこともしばしばだった。

 勲はその水たまりを避けるように生活しながら、イボのことを考えた。イボはたしかに怖い。得体が知れない。毎夜ハサミでちょん切ろうと試みるものの、イボは鋼鉄でも入っているのかと思うほど固く、鋏の刃がこぼれてしまったことも一度や二度ではなかった。果たしてこれはイボなのか。頭の中でイボの概念がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
 イボのせいでパンツもスムーズに履けない。お尻もずっと痒い。パチンコ台に座り続けることもままならなくなってきた。
 怖い。辛い。痒い。
 千絵と別れたら、これらの恐怖から、面倒から開放されるのだろうか。きっとそういうことだろう。そういうことだから、歴代の千絵の夫たちは千絵との別れを選択したのだろう。
 自分はどちらを選択するべきか。そこまで考えて、はたと勲は気がついた。自分には選択肢がある。しかし千絵は? 一緒になった男に鋼鉄のイボができるという運命から逃げられない。千絵と運命をともにすると誓ったはずなのに、自分だけその運命から逃れられる気になって、僕は結婚の良いところだけを味わおうとしている。千絵の素晴らしさも、悲しい運命も、すべて一緒に抱えてこその夫婦のはずなのに。

 勲は、家のそこかしこにある悲しい水たまりを見渡した。僕が拭かなくて誰が拭くのだ。拭いて拭いて、窓を開けて風を通して、千絵を陽の当たる場所へ連れ出そう。たとえなんの意味もなくても、僕は千絵と運命をともにする人だから。
 勲は一心不乱に水たまりを拭き続けた。

 ガチャンとトイレのドアが開いて、千絵が出てきた。蒼い顔をしている。
「どうして? あなたずぶ濡れじゃない。掃除なんかしなくていいのに。いいの。いつもこうだから。あなたが去って、この家が湖に沈んで、私はただ死んだように漂って、水面から手が降りてくるのを待つの。だいじょうぶ、いつもこうだから」
 千絵は何度も、いつもこうだからと繰り返した。
 勲がおもむろにパンツに手を入れる。早くも一メートルほどに育ったイボを取り出した。何するのと尋ねる千絵には応えず、勲は千絵の腰に手を回す。くるりとイボを一周させ、お腹のあたりで固く結んだ。
「これが命綱。湖の中でも、僕を見失ってはだめだよ」
 どうして、と千絵が泣く。水たまりが出来るかと思ったが、それは水たまりにならない。
「水たまりを拭いてくれたのは、あなたが初めてよ」
 それから千絵は少し笑って、お腹をさすりながら、初めてこの命は大きく育つかもしれない、と言った。

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