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大和名所図会 巻六(乾)

この note では『大和名所図会』の挿絵ページを翻刻します。本文ページは大正時代の活字版があるのでそちらを参照してみてくださいね。👀 → 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本名所図会 第1輯 第3編』(大正8年)

※ タイトルの「乾」は、「乾坤けんこん」で上下巻を意味しています。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 6/58

『吉野紀行』曰 多武峯にてよめる
   尋来て こゝも桜の 峯つゞく
     吉野初瀬の 花の中宿
        飛鳥井雅章

※ 「吉野紀行」は、明和九年(1772年)に書かれた『菅笠日記』のことと思われます。著者は本居宣長。『菅笠日記』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「飛鳥井あすかい雅章まさあき」は、江戸時代前期の公卿、歌人。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 8/58

多武たふのみね
十市郡にあり。峯高く聳へ、草樹鬱蒼として幽𨗉の地なり。
田身たふのみね(日本紀)、大務たふ(日本紀)、談峰たふ(縁起)、多年たふ(法華験記)、談武たふ(増賀夢記)ともかけり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 7/58

方子集
 小夜さよふけて かたらい山の ほとゝぎす
   ひとりね覚の とこにきく哉
          肥後

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 10/58

多武峯たふのみね 東門

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 11/58

多武峯 本社 桜おゝし

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 12/58

多武峯 西門

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 15/58

『撰集抄』曰
むかし、増賀ぞうが聖人といふ人いまそかりける。いとけなかりけるより道心ふかくて、天台山の根本中堂に千夜こもりて いのり給ひけれども、なを まことの心やいでかねて侍りけん。
 中略
終に 大和國多武嶺といふ所にさそらへ入て、智朗ちらう禅師ぜんしいほりのかたばかり残けるにぞ きよをしめ給へりける。

※ 「撰集抄」は、鎌倉時代の仏教説話集。
※ 「増賀ぞうが聖人」は、平安中期の天台宗の僧。
※ 「いまそかり」は、いらっしゃる。いまそがり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 17/58

安倍文珠堂

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 18/58

阿部あべさん 崇敬そうけう 智足ちそくゐん
阿部あべ村にあり。人皇三十七代 孝徳こうとく天皇大化年中の草創そう/\なり。本尊 文珠もんじゆ大士たいしは、むかし空中くうちうひかりあり時に、山川大に震動し、石窟せきくつに物の落ける音あり。立よりてこれを見れば、みたけ壱寸八分の黄金こがね文殊もんじゆの霊像います。其 あたゝかなる事、人の はだへの如し。● これを感得かんとくして、安部あべやま安置あんちし、のちあん阿弥あみに仰せて、佛量ぶつりやう 九尺の像をつくらしめ、かの霊像を 眉間みけん彫籠ほりこめたり。なをそれより、利生りしふ夜ゝよゝにあらたに 効験こうげん日々にまして、奥州あふしう永井のながい丹後たんごしう切門きれと、和州安陪あべさん、これを 本朝ほんてう三文珠さんもんじゆ大士たいしとして、遠近ゑんきん詣人けいじん喝仰かつがうせずといふ事なし。

いにしへは大日如来を本尊とす。今の大日堂これ也。文殊堂は別院として滿願寺と號す。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 19/58

新古今
 ほの/\と 春こそ空に きにけらし
   天のかぐ山 霞たなびく
         太上天皇

※ 「太上天皇」は、退位した天皇をいう尊称。ここでは、太政天皇後鳥羽院。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 21/58

天香具あまのかくやま
千載賀
 君が代は 天のかぐ山 出る日の
    照むかぎりは つきしとぞ思ふ
        大宮前太政大臣

※ 「千載賀」は、千載和歌集の賀歌。
※ 「大宮前太政大臣」は、大宮前太政大臣 藤原伊通ふじわらのこれみち

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 22/58

天香具あまのかぐやま
『範兼卿類聚』曰、此山あり所をしる人なし。『澄月哥枕』曰、此山のあり所ならひ傳ふる事ありとかや。披露ひろうにおよぶべからず。『釋日本紀』曰、伊豫國『風土記』に曰く、天降あまくだるの時、二つにわかれて、片端は 倭國やまとのくに にとゞまり 天香久あまのかぐやまといへり。片端かたはし伊豫いよのくに伊豫いよのこほりにとゞまり、天山あまやまといふ是なり。『詞林採兼』曰、およそ この 山は本朝の霊山として ありところ陰陽いんやう沙汰さたせらるゝ山也。天照大神、岩窟いはとかくれます 六合くにのうち 常闇とこやみ にして、ひるよるをわかたず。高皇産たかみすめみむすびの神、八百万神やをよろづのかみあめの 八瑞像やすみかたのかゞみをいさしめ、あさをうへ、あを和幣にぎてとし、かぢ木をうへ、しら和幣にぎてとし給ふ。是、木綿ゆふの初として、一夜ひとよ蓋茂しげれり。此等の 儀式ぎしきよりして今の世にも とよ御神楽みかぐらと申は、是をうつして をこなはるゝな也。

※ 「範兼卿」は、平安時代末期の公家、藤原範兼ふじわらののりかねのことと思われます。
※ 「澄月哥枕」は、中世の歌学書『歌枕うたまくら名寄なよせ』。
※ 「詞林採葉」は、南北朝時代に書かれた万葉集注釈書『詞林しりん采葉さいようしょう』。『詞林采葉抄』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 24/58

耳成山みゝなしやま
山中に 梔樹くちなしのき おほし。此ゆへにくちなし山ともいふ。

古今俳諧
 みゝなしの 山のくちなし えてし哉
   思の色の 下染にせん
          読人しらず

※ 「古今俳諧」は、江戸時代中期に出版された『古今俳諧明題集』のことと思われます。『古今俳諧明題集 5巻【全号まとめ】』(国立国会図書館デジタルコレクション)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 25/58

耳成山みゝなしやま
なし、あるひは、なしなし 等に作る。木原村上方にあり。四面田野にして、孤峯こほう森然しんぜんたり。山中に 梔樹くちなしのき 多し。因て、又、梔子くちなし山とよぶ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 26/58

夕立に はしり下るや 竹の蟻
        丈草

※ 「丈草」は、江戸時代前期の俳人、内藤ないとう丈草じょうそう

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 28/58

千載
露分て 宿かり衣 いそげども
   里は とをちの 野べの夕ぐれ
        従三位宣子

※ 「千載」は、千載和歌集。
※ 「従三位宣子」は、南北朝時代の北朝の女房、日野ひの宣子せんし
※ 「とをち」は、十市とおち十市里とおちのさと

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 33/58

新古今
よし野山 去年こぞ枝折しをりの 道かへて
   まだみぬかたの 花を尋ねん
        西行

※ 「新古今」は、新古今和歌集。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 36/58

元弘三年正月十六日、大塔宮吉野城に籠らせ給へば、鎌倉勢六萬餘騎前後を ● て攻寄ける。大塔宮の御よろひたつ矢は 七筋、血の流るゝ事 瀧のごとし。もはや 御最期さいご酒宴しゆゑんあり所へ、村上彦四郎 義輝よしてるにしきの 御よろひを賜り、宮の御身がはりとなりて、敵を あざむき、宮を安ゝやす/\と高野山へ落し、其身は蔵王堂の前なる高矢櫓やぐらに上り、腹十文字にかき [■は木+癶+虫] 切て 伏にける。誠に本朝の英雄ゑいゆうにして、前漢の紀信きしんにもをとるまじき人なり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 38/58

吉野山
六田飯貝より大峯小篠に至る

新拾遺
 けふみれば 川波高し よみしのゝ
   六田の淀の 五月雨の頃
          義詮

此方は川下なれども、図をくはしくあらわすふへに、川上へまかれあるなり。

※ 「新拾遺」は、新拾遺和歌集。
※ 「義詮」は、南北朝時代の室町幕府第二代征夷大将軍、足利あしかが義詮よしあきら

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 39/58

千本桜
日本が花 あらし山

続千載
 よしの山 岑飛こへて 行雁の
    つばさにかゝる 花のしら雲
         中宮

散しくや 谷ゝさかり 奥つほむ
         淡々

※ 「続千載」は、続千載和歌集。
※ 「淡々」は、江戸時代中期の俳人、松木まつき淡々たんたん

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 35/58

千本櫻ちもとのさくら
長峯より一目に見る桜をいふ。

日本花にほんがはな
七曲なゝまがり の坂のうへより峯ゝ谷ゝの桜を一面に見はたすをいふ。

七曲なゝまがり
是より多武峯の行路なり。『巡覧記』曰、吉野山に登には、六田より入るが本道なり。吉野へ行人はかならず 先此道より入道し、飯貝の方よりも吉野の町へ登る、それはわき道なり。本道にも、わき道にも、わらはべ ども桜の 実生みばへを多く持出て、ゆきゝの人に賣る。是むかしよりのならひにて、蔵王権現の御愛樹あいじゆとなん云つたへける。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 40/58

妹背山
古今
  流れては いもせの山の 中に落る
   よしのゝ河の よしや世の中
            読人しらず

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 31/58

妹背いもせやま
貝原篤信『和州巡覧記』曰、上市より龍門りうもんの谷の中に入、此地の河邊の両はうに河をへだてて、妹背いもせやまとて両山あり。飯貝いかいの方にあるを山といふ。西也。古城の かたち見ゆる 龍門りうもんの方にあるを いも山と云。東也。是は しげ山也。いも山、山ともに高からず。同じ大さなる山也。河をへだてゝ両山相向へり。

妹山 背山

※ 「貝原篤信」は、貝原かいばら益軒えきけん。名は篤信。
※ 「和州巡覧記」は、貝原益軒が書いた『大和やまとめぐり』のことと思われます。『大和廻』(人文学オーブンデータ共同利用センター)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 41/58

蔵王堂 威徳天神 實城院

 しばしなを 夕 ● をのこせ 入相の
    かねの御嶽の 花のひかりに
          大納言雅章

※ 「入相のかね」は、日没のときに 勤行ごんぎょうの合図につき鳴らす鐘のこと。
※ 「大納言雅章」は、江戸時代前期の公卿、歌人、飛鳥井あすかい雅章まさあき

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 53/58

實城寺じつじやうじ
蔵王堂の乾のかた、三町ばかりにあり。金輪きんりんともいふ。建武三年より後醍醐天皇皇居にさだめられ、北朝ほくてう南朝なんてうと相わかれ、年號も両朝よりぞ出されける。天皇勅して、新葉しんよう和哥わかしふをえらばれ給ひ、又、御手づから茶入十二をきざませ給ふ(或は廿一ともいふ)。世に金輪きんりんといふ これ也。漆器しつきとはいひながら、勅作ちよくさくにて侍れば、金輪きんりんあひしらひとて 茶湯ちやのゆにもあるとかや。南朝なんてう四世 五十六年の間、皇居の地也。其時の皇居を作りもかへず、其まゝにして、殿屋でんをく美麗びれいなり。つね御座をましあり。

帝ある時、ほとりの美景を詠め給ひて
  都だに さびしかりしを 雲はれぬ
    吉野おくの 五月雨の空
           後醍醐天皇

※ 「乾」は、西北。
※ 「新葉しんよう和哥わかしふ」は、南北朝時代に南朝方で編纂された新葉しんよう和歌集。
※ 「あひしらひ」は、応対、受け答えのこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 53/58

左抛さなぎ社 袖振山そでふるやま
勝手かつて社 三宝院 吉水院

続千載
  天津風 雲吹とつな 乙女子が
    袖ふる山の 秋の夜の月
          国友

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 54/58

佐抛さなぎ明神やしろ
吉野八大神の内也。御影山みかげやま 此社地をいふ。さなぎ明神の山を御影山といふは、天人の影うつりしよりいふとかたり侍りしかば

 さなぎだに さなぎの神の 御影みかげ
   うつろふ花に 風もこそふけ
         飛鳥井雅章

勝手神祠かつてのやしろ
道の右にあり。大宮、若宮の二社ありて、吉野八神の内なり。

袖振山そでふるやま
右に御影山、左に袖振山、此山の いたゞき を那良山となんいふ。天女こゝに舞かなでしより、袖振山の名あり。然れども、袖振山にはふるきふみどもに説ゝ多く侍る。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 53/58

吉水院よしみづゐん
蔵王堂の少し先の町より左二町計下にあり。當院も後醍醐帝の 行宮あんきうにして、建武元年二月の遺券いけん呈文ていぶんあり。又、正平、弘和、元中、明徳の年間に賜ふ所の綸旨りんじに及び、越智をち 筒井つゝゐ順慶じゆんけい等の願文あり。抑、此寺の草創は、役行者ゑんのぎやうじや 山上さんじやう 修行しゆぎやうの時、姑息こそく庵室あんしつ也。其後、後醍醐の聖寶しやうぼう尊師も、こゝにあとをとゞめ給ふ。 加之しかのみならず 、源平兵乱には、源義経、弁慶もこゝにちつし、軍議ぐんぎはかる事、三年に及べり。其 居席きよせき 今に 破壊はゑせず、庭前には駒の足蹤あしあと、武蔵坊が ちからくぎ、今にその かたちのこす。往昔そのかみ、文治元年、源義経 大物浦だいもつのうらより風波のなんをのがれ、此山にのぼり、夜に入てひそかに此寺に入る。吉野法師尊義経を討んせしゆへ、又、此寺を出、中院谷に隠れしに、悪党あくとなをもあとを求め来りければ、佐藤さとう忠信たゞのぶをさして 防矢ふせぎやさせ、しづかすてて、多武峰たふのみねを經て、南院の内藤室ふぢむろの十字坊へ入られしとなり。又、後醍醐帝、京都をのがれさせ給ひ、此寺に潜幸せんかうありし時、まづ當院へ行幸みゆきありて、行宮かりみやとし、後に實城寺に移り給ふ。

此院のゆかを御まくらとしてよみ給ひし御哥に
  花にねて よしや吉野の よし水の
     枕のもとに いははしる音
            後醍醐天皇

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 43/58

鳥栖とすみやま 竹林院

懐中抄
 ふりければ 声も聞へず 鳥すみの
    やどりは山の 名にぞありける
          よみ人しらず

※ 「懐中抄」は、夜鶴やかく庭訓ていきんしょうの別名。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 2/41

竹林院ちくりんゐん
勝手社より御南子社、金剛童子社、宮坂町をへて喜蔵院の次にあり。當院には、頼朝よりとも卿の教書けうしよ一章(義経追討の書簡なり)、射術しやじゆつ新流しんりうの一巻あり。院内住職の内、射術の名譽あり。吉見、和佐、米田等、門葉なりといふ。

※ 「門葉」は、一つの血筋につながる者、一族のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 44/58

花矢倉 八王子 人丸塚

ほろ/\と 山吹ちるか 瀧の音
         はせを

※ 「はせを」は、松尾芭蕉。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 45/58

子守社

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 4/41

人丸塚ひとまろつか
鷲の尾の傍にあり。

子守神祠こもりのやしろ 大宮三㘴
住吉同體にして、吉野八大神祠の其一也。囘禄の後、豊臣秀頼公の再建社檀美麗びれいにして、拜殿の哥仙は狩野永徳の筆也。

※ 「囘禄」は、回祿かいろく。火の神の名。火の神のしわざというところから、火災にあうこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 46/58

金精大明神社
光禅寺 奥之院

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 5/41

金精こんじやう大明神社
社名帳曰、金峯神社吉野山の地主神として、金御嵩の號もこゝに起る。『三代實録』曰、貞観元年正月正三位を授くと云々。又、同年の秋八月、螟■おほねむし [■は月+龹+虫] といふ。悪虫あくちう五穀ごこくをくひやぶることたとへんかたなあし。しかれば、藤原、山かげ滋岳しげをか、朝臣川人等、宣旨せんしをうけ給りて、かの虫をはらひやる祭りを行ふ。かの祭礼は、清浄の地をゑらぶの 旧例きうれいなればとて、吉野郡の高山にして、これをとり行ひ給へり。同じき五年にも、吉野郡の高山にして まつるよし『三代實録』に見へたり。當社も吉野八大神の第一にして、金峯山きんぶぜんの鎮守とかや。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 47/58

西行菴 苔清水

山家集
 とく/\と 落る岩間の 苔清水
    くみほす程も なき住ゐかな
         西行法師

※ 「山家集」は、西行の歌を集めた私家集。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 7/41

こけ清水しみづ
西行法師の庵室あんしつあり。正面堂より西北にあたり、堂の うしろよりみちありて、山のそばを二町ほど行て下る。其間の小川に 小瀧しやうたきあり。これを こけ清水しみづといふ。庵室あんしつに西行の画像ぐはざうあり。此所にての和哥多し。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 48/58

清明瀧

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 7/41

蜻蛉せいれい瀑布のたき
西河にしかう村にあり。此瀧は、峨々がゝたる岩間いはまより みなぎりおつる。凡八十ひろあり。瀧のうへ、岩のあいだふちあり。此峯のめぐりを 蜻蛉かげろうの小野といふ。しからば、蜻螟せいめいが瀧なるべきをあやまりて、清明せいめいたきともかくなるべし。瀧のうへなる山を琵琶びは山といふ。此瀧の末を音無をとなしかはといふ。名所の音なし川は、紀州熊野くまのにあり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 49/58

大峯山上嶽

続古今
大峰とをるとて
  七 ● の よしのゝ川の みをつくし
   若の八千代の しるしともなれ
           僧正行意

※ 「僧正行意」は、鎌倉時代の僧、行意ぎょうい

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 34/58

吉野川
水源大臺原山よりながれて、しほ葉、伯母谷、和田、多古、白川渡、人知、大瀧を経て、東川に至る。𦾔名 遊副川、古人詠題する所也。これより國栖、樫尾を歴て、菜摘村に至り、菜摘なつみ川といふ。宮瀧、河原屋、立野、飯貝、上市、六田、土田、下新住あたらすみ 等を経歴して、宇智川に入。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 52/58

延尉ゑんゐ 源義経公の愛妾あいしやう しづか御前ごぜん勝手かつて神前しんぜんにて、法楽ほうらくまひを奏し、衆徒しゆとのこゝろを とろかし、義経 主従しう/\十二をとせしは、誠に やいばを用ずしてしやうを全ふするは、六韜りくとう文伐ぶんばつの篇の奥義あふぎともいひつべきもの朝。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6乾』 55/58

浄見原きよみはらの天皇吉野の行宮あんきうにて琴をだんじ給へば、天人影向し曲に応じて舞遊びけり。それより袖振山といふ。



筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖