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我が人生で初めて訪れた、おふくろのいないこの夜に

強制的に肺へ酸素を送り込まれていたおふくろが、おいらと妹の声で一瞬「びくん」と身体を震わせて、どんどん静かになっていくディスプレイの数値が増えた。
お、持ち直すのか?という期待は、しかし淡いままで終わった。数値はしぼんでいくように0へと近づいていき、医者が脈を確認しながら腕時計を見た。最期の瞬間は呆気ないものだった。

おふくろは昭和14年生まれで、おいらは25歳の時に生まれたことになる。
同級生の母親たちより少し年上だったことから、特に小学校低学年の頃は、うちだけが静かなお母さんなんだなぁ、と思っていた。
だからつまらないとか、おかしいというわけではなく、時々開いた口から出た言葉を余すことなく聞き、覚えておかなければならない、そういう感じが違うんだよなぁ、と感じていた。
おいらが6歳の時に妹が生まれて、その世話でおいらが放っておかれるようになったから、余計おいらへ向かって放たれる言葉が少なくなって、逆に会話の機会が重要になっていったような気がする。
だから、・・・なんだろうなぁ、今でも他人の言う母親像とは合致できない、微妙な距離感が消せない人と言えばいいのか、そういう目には見えないバリアの向こう側にいたのがおふくろ、そんな感じのままでいる。
少なくとも親子が始終べったりと、という感覚はわからないし、そんな瞬間が現実にあったという記憶もない。

おいらがまだ幼稚園に入る前、弟が生まれるはずだったのだが、おふくろはその子を流産してしまったことがある。その時、おふくろの体調が悪かったのが子供の目にもわかったので、家の手伝いをすべきだろうと思い、晩飯の買い物を引き受けることにした。
でっかい買い物かごを引きずるようにして駅前まで行き、豚肉とたまねぎを買って帰ってきたのだが、当時はいわゆるお肉屋さん、八百屋さんを回って買うスタイルだったから、都度都度お店の主人に何が欲しいのかを告げなければならなかった。
すると、大人たちが「こんな子供が買い物を!?」と驚いて、早く帰っておふくろを安心させたいというこっちの気持ちとは裏腹に、家はどこ?お母さんは何をやっているの?とおいらに尋問を始めて、辟易とした。
まぁ、おいらもこの年になって、確かに4つ?くらいの男の子が一人で買い物をしている様子が異様に映ったことはよくわかる。おいらだって、子供が一人で買い物かごをぶら下げてうろうろしていれば、目で追ってしまうに違いないからだ。
家に帰るとおふくろは横になっていて、買い物かごを置きながら帰宅を告げると笑い、ありがとうと言った。不思議なもので、小学校へ入る前の時代のおふくろを思い出す時は、いつも決まって真っ青な顔で横になっていたあの時のおふくろの姿だ。
アルバムを見れば、当時住んでいた借家の前で並び、一緒に写った写真などもあるのだが、そういう光景の中に自分がいた記憶がない。その時に何を話したかなども覚えていない。手をつないでいた?おいらがおふくろと?へぇ・・・、という感じだ。

ちょっと恥ずかしい話なのだが、その「おいらが買い物へ行った日」の夜、親父が仕事から帰ってきて、おふくろが床から起きあがって晩飯を作り始めた際に、おいらのことを親父に話した。すると親父が激怒し、おふくろを殴った。あの瞬間に沸き上がった怒りは、今も消えていない。
そう、うちは今でいうDVが横行する環境で、それがおいらや妹の人格形成にも大きく影響を与えてきた、そういう家だった。
だから、おふくろは努めて静かにしていたのだ。おいらや妹が大きくなり、力や言葉でも親父を圧倒できるとわかってから、・・・それはもう1990年代に入ってからのことだったのだけれど、何かにつけて話をするようになり、そこから印象がずいぶん変わっていったような気がする。

考えてみれば、ずっと我慢を続けてきた人生だったんだろうと思う。
そういう耐性の遺伝子は、おいらにも注がれていたような気もする。おふくろとおいらが違うのは、おふくろは死ぬまで我慢をし、おいらは折に触れて耐えることを諦めてきた点だ。
そういうおふくろをどこかで救いたいと考えている間に、おふくろの認知症が静かに始まっていて、だんだん遠い存在になっていく寂しさを味わうことになった。
何か起きた時にはすぐ駆け付けられるように、と妹夫婦と同様おいらも実家の側へ転居したのは2017年のことだ。
その直後、実家の近所でおふくろとすれ違うことがあった。まさに路地で、触れずにすれ違うのは難しいという狭い空間の中で、おふくろは側を通る人間がおいらだと気が付かず、どこか遠い場所を見る目のまま離れていく様子を見て、衝撃を受けた。
自分の母親に存在を忘れられた息子とは、ここまで立つ瀬がない思いを突き付けられるものなのか、と。
そして思い出したのだ、小さいときに感じていた「見えないバリアの向こう側にいるおふくろ」の印象を、あのうすらぼんやりした感覚を。

それからの4年間は、努めて実家に行き、おふくろとあれこれ話をしてきた。
無論、介護の為という名分はあったにせよ、根底には忘れないでくれ、思い出してくれ、という伝えたい願いがあった。
だが悲しいかな、おふくろはどんどん今起きたことがわからなくなっていき、話すことは大昔の、それこそおいらが買い物かごをひきずって歩いていた時代のことばかりになっていった。時々、授業料をとか、教科書代をとか、もごもご口走ることもあったが、それが高校時代のおいらのことなのだとわかって、知らずに涙が出たこともあった。
そうか、あの頃だってそんな風に心配してくれていたのだな、と。

霊安室で、ついに妹が親父に噛みつき、うちはおふくろというかすがいを失って、崩壊していくことを悟った。
考えてみれば、そうなることは昭和の昔からわかっていたことだった。最初から壊れているものが、自然に治ることなどありえない、40年前、50年前にはっきりしていた結末を、令和3年の今、ようやく親父は理解したはずだ。
妹は親父を突き飛ばし、おふくろを殺したのはお前だ、と言った。何かのドラマに出てきそうな陳腐で、使い古されたフレーズだが、それ以外に表現のしようがなかったことも確かだった。
だが、なぜおいらや妹がそう思ったのかを、果たして親父はこの先どこかで悟ることができるのだろうか?まぁ、そういうこちら側の気持ちを一度たりとも理解することがなかった親父だ、ふらふらと実家の周りを歩きまわるおふくろを、文字通り引きずって実家へ戻そうとする様子があまりに暴力的だとして、何度も警察を呼ばれたことがある男なのだ、逆に簡単に反省などしてもらっても困る。とことん悩み、悔いた末に果てていけばいい。

それにしても、と改めて思う。妹一家と別れて部屋に戻り、一人でパソコンに向かう今、いつも台所で料理をするおふくろの後ろ姿を見ていたな、と。
一緒に歩いた記憶など数えるほどもない。
ただ、背中をかがめて包丁を使い、背中をかがめてフライパンをふるい、背中をかがめて洗い物をし・・・、そういうおふくろの姿ばかりを見てきたような気がする。
あれほどおいらのことを忘れないで、思い出してと思っていたくせに、おいらだっておふくろのことを忘れていっているではないか。これから先、一つでも多く思い出していけるように、我が人生に初めて訪れたおふくろのいないこの夜に、深く静かにそう願うばかりだ。

おふくろ、出来の悪い息子で本当に申し訳なかった。もういいんだ、ゆっくり休んでおくれよ。

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