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上にのっかる下心

「お節介なもので、悪意を持たない者はいない。」
フランシスコ・ベーコンの言葉が、10代の私にストンと落ちてきた。

或る人の「ソレ」は善意ではなく自己愛であり、ただの自己アピールに過ぎない。

ということまでは10代で感じたこと。

お節介を受け取る側として、その下心の存在にわかっていながらも、自分にとって都合よく解釈する場面はきっと少なくないはずである。相手の下心に自分の下心がのっかっている状態だ。

そんなとき我々は、相手の下心に期待さえしてみたりする。
決して口には出さないが。ましてや相手の薄らぬるい好意に対して無知を装いだすもんだから、たまったもんじゃない。

非常に愚かで、いかにも人間臭い。

熱に浮かれた人間の口から出る「優しくて繊細な彼や彼女」の評価ほどくだらないものはない。きっと熱で頭は参っていてパフォーマンスの上澄みを掬うぐらいしかできないでしょう。頭がお花畑な彼や彼女は、周りが薄ら寒く見ているのを知らん振りするほど性根はもともと腐っているのでしょう。

大抵の小綺麗な人間は愚かである。

「優しく、いい人である。」「繊細で、頑張り屋である。」と、他人の態度や仕草が煩く喋る。
そんな小綺麗な人間をアピールされた時にベーコンが話しかけてくる。それでもたまには都合よく自分も耳を塞いでみてしまうもので、全く馬鹿だなあと自分に呆れる。

所詮、私も汚い人間なのである。
人間臭く、くだらなくてどうしょうもない。

小賢しい馬鹿でなければ、都合の良いロマンスは始まらないのだ。ドギツい勘違いと自惚れからしか産まれない悲恋など尚更だ。

しょうがなく人を好きに成るために、今日も我々は都合の良い勘違いをする。

ここまでが20代も終わりかけの今、思うことである。

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