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ポニアトフスキーのおうし座(9984字)



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空白の一年が始まるその瞬間、僕がふと想像したのは、ある女の人が海に向かって婚約指輪を放り投げる姿だった。誰々のばかやろーとかって叫んで海に放り投げた指輪はふわふわっと、さほど回転もせずに宙に浮かんで、一瞬だけ海の中に生きる生き物全ての注意を奪ったことを誇るかのように光り、そして思ったよりもだいぶ浅いところに着水する。女は放った指輪が波に流されてここまで戻ってきてしまうかもしれないと思いながら、万が一そんなことになってももう一度拾って捨て直すなんて決まりの悪いことをせずに済むよう、必要以上に遠くの、多分水平線の辺りをしばらく眺めて、視線を落とさぬまま立ち去る。立ち去るときにもきっとどこかで自分の足跡の軌跡を意識したりして、来た道を戻るんじゃなくて反対方向に足を向ける。「もう絶対、振り返らない。過去は海の彼方へ」とか頭の中でやっすいキャッチコピーが、洗練を欠く言葉とは不釣り合いなほどにオシャレな細い字体でシュッと浮き出ていて、映像文字いろいろ相俟って頭の中は4,500円くらいのTシャツのデザインみたいな光景になってる。もしかしたらその女は少し小高いところから、Uの字を描く自分の足跡をSNS用に撮って、「踏ん切りをつけました」ってコメントと、#お別れ  #バイバイ #〇〇海岸 #名所 #穴場 #秋の終わり  とかハッシュタグもつけて投稿するかもしれない。
でも事情を知らない他人は波打ち際に向かう足跡と、引き返す足跡が砂上に描いてある様子が写っているところを見るわけだから、まるで自殺を踏みとどまった人の投稿に見えてる。#名所 も捉え方によってはそういう名所に見えるものだから、「大丈夫?話聞くよ?」とか、「よくやった!君はもう大丈夫!」みたいな、遠慮のない善意を表すコメントがつく。善意を持て余した人間が、ここぞとばかりに沸きたってしまう。とにかく最初の方の善意はまだ何となく話しがかみ合ってるけど、「踏みとどまってくれてありがとう!」「もう変なこと考えちゃダメだよ」ってコメントを見るに至っては、あっちゃー完全に勘違いされちゃってるなってその女は思う。本人も本当は紛らわしく見えるのが分かってて、フォロワーの何人かはコメントくれることも見越してわざとそういう投稿をしたのであって、「え、え。あ! もしかして勘違いされてる? 彼とお別れしたんで指輪捨てに来たんです! ベタですみません(笑)。ちなみにそういうことは一切考えてません。誤解させてしまってすみません」捻りもなんにもないかまってちゃんと捻りも何にもないかまっちゃうちゃんの、これは茶番で。
「なんか、実はかなり落ち込んでたけどみんなのコメントで笑ったらほんとのほんとに吹っ切れました。ありがとうございました。私って本当に色んな人に支えられてるなって思います。今日はお肉!」の投稿には大きなハンバーガーを顔の横に持ってくる彼女の笑顔。「女ちゃんの顔くらいあるー!!お肉食べて元気いっぱいだね!」「てか顔ちっちゃ!ハンバーガーがでかいのか?それにしても……」ハンバーガーが大きいんです!(笑)でもありがとうございます! 太る……。
とにかく、そういう茶番の火ぶたは彼女が指輪を投げた瞬間に切って落とされたんだけど、指輪がふわりと着水したその丁度真下のところに僕はいた。もちろん僕はその日陸地を歩いていた。海になんていなかった。これはあくまでイメージの話であって、僕はあの光の環に襲われたとき咄嗟に、誰か失恋した女が投げた指輪が僕の頭の上に振ってきたと思った。大きなリング状の光が僕の頭上にゆっくりズゥゥーンっていう音を立てながら降りてきて、僕を取り囲む。青白い光、騒々しい音。それらは海の、大きな波に呑まれるかのような錯覚を僕に植え付け、呼吸する力を奪い、それから毒にも薬にもならない茶番が一幕流れて、緞帳が降りるようにゆっくりと意識を失った。約一年経って、病院で目が醒めた僕は色々なことを聞かれた。どちらかと言えば僕の方が聞きたいことがたくさんあったけれど、僕は何も覚えていないという他なく、自分はどれくらい寝ていたの? とかなんとか、やっぱりそういうベタなことを聞くしかなかった。これはこれで茶番。実際僕が寝ていた約一年、僕の中できちんと一年の時間が流れていた。しかしそれが全部夢だったのだから、僕は一年間、とっぷり夢の住人になったわけだった。そう夢の話だ。だからその世界で何が起きたって夢なんだからなんの意味もない。どんな不思議なことが起きても不思議じゃない。目覚めた後、体調はすこぶる良好で、混乱も違和感もなかったけれど、その二つが無いことが、意識を失ってから病院で目が醒めるまでの一年が僕にとって何でもない、ただの夢でしかないことだということを如実に証明していた。
だけど夢って、忘れるものだろう。必ず記憶は薄らいで、ただのぼんやりしたイメージになってしまう。だから誰にも話すつもりのない、意識を失っていたときの夢の様子を、時々読み返せるように記録しておくのだ。僕が失ったのは、これから失うのは、記憶でも現実的な時間の流れでもなく切実な恋なのだ。


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意識を失った直後、目の前が明るくなって、話しは唐突に始まる。夜明けの空なのか日暮れの空なのか、分からなくなるときがある、と佐々木冬華が言った。「分からなくする、と言った方が正しい、意識的に見当識を棄てて、今目の前にあるひかりを感じてみれば、夜明けと日暮れの区別を咄嗟につけることは私たちにはできない。ここはどこで自分は誰なのか、目覚めてからどれくらいの時間が経っているのか、どんな季節を越えたのか、足の疲れ、頭の冴え、そういう類の、今私はどんな状況に置かれているのかをマークする感覚をすべて意識的に棄てるのだ」
外だ。明け方? なんで佐々木冬華と手を繋いでる? と考えるともなく考えそうになっていることを力づくで遮るようなことを彼女は言う。僕の大好きな冬華。何もかも分からないけれど、冬華が隣にいるだけで安心して、興奮して、とりあえず彼女の言うことを聞く気になった。冬華は小さな拳を空に突き上げて言う。その姿が実に硬直して決まりきっている。まるで砂漠に立ったまま死んだ旅人が、吹き付ける砂と、照り付ける太陽の熱、そして極寒の夜に固められて、黄金の像になったように見えてかっこいい。
「今は5時だから夜明けだ、17時だから日暮れだと考えるな、この空の青白さだけを見るのだ。青白いという形容を頭に浮かべることも拒否すれば、何色かだって分からない。灰色、冷めた群青、果物の皮の色。そう、リンゴの皮を剥くように、鈍い切れ味のナイフの根本で、上から丁寧に地球の表面を撫でてみてほしい。
寒さ、そう寒さはごまかせない。しかし着ている服から季節を察することはやめてみて欲しい。この厚さの上着を着るのは秋なのだ、とか、半そでだから夏に違いないとか、そういう推理をするのを一度意識的に拒否してみて欲しいのだ。
そうしたら、記憶を失いつつある人間が今どんな世界にいるのかが分かる」
と言う。大声で言う!
冬華は僕の手を握っている。突き上げたのは右手。僕の手を握るのは左手。黄金色の彼女の手は冷たく、視線は遠く、ひどく恐ろしい目に遭っていることが分かる。僕は彼女の言うように意識的に「けんとうしき」を棄てるということができる気がした。それが難しいことだとは思わなかった。要するに、冬華に集中すれば良いだけの話で、それは簡単なことだったから。
冬華の兄は少しずつ記憶を振り落していったらしい。そういう病気なのかと聞くと、頭は至って正常なのだと言う。つまり意識的にいらない記憶、不必要な情報を棄てて、すべてを一個の目的のために頭を使うように自分を組み替えて行ったらしい。兄は芸術を愛し、特に音楽を愛し、それから文学、天文学、絵画。そういう感動の一つひとつを頭に詰め込む代わりに、妹である冬華の情報を忘れた。この妹では感動しないと、本人に言ったらしい。本来では考えられないことだった。だからこれは現実ではないと僕は思ったが、見当識を捨てていた僕は、あまり深くそのことを考えなかった。


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現実ではないその世界には継続性があって、現実とは違って僕と冬華は親密で、それほど時間が経たないうちに性行為を済ませた。冬華の部屋。彼女はカーテンを閉めなくても薄暗い部屋のベッドでうつ伏せになって痛みに耐えていた。3回の行為後、疲れて眠ると真夜中の見慣れた自分の部屋で、冬華は隣にいなかった。乱暴にしてしまったことを謝ろうと思っていたのに、目が醒めると佐々木冬華がいない自分の部屋で、慌ててもう一度寝ようとしたが眠れなかった。気だるさだけが確かに残っており、色々な感触が湿り気を帯びて指にまとわりついていた。鏡に映った自分の顔は謝るべき人に謝れなかった男の顔で、情けなかった。シャワーを浴びたときに思いだした。僕はうつ伏せになった冬華の頭に毛布をかぶせて、その上から抑え付けるようにして、顔が見えないようにしながら、不自然なピストン運動を繰り返したのだった。風呂場に鏡があったので、そこがいつもの、夢から覚めた世界だと分かった。僕は冬華と手を繋いで歩いた世界の、家の中に鏡がないことにわりとすぐに気がついていた。だから、それが現実じゃないことも、割りとすぐに気づいていた。最初は考えないようにしていたけど、そこが現実じゃないなんて、あの佐々木冬華と会話して、あろうことかイチャイチャできている不自然を体験した時点で考えるまでもなかった。
その世界には鏡がないというより、鏡を見て身だしなみを整えるという習慣があまりないようだった。思春期に至る前、恐らく多くは自分の髪型や服装にあまり関心を抱かなかったと思うけど、この世界ではみんながそのまま大人になったようだった。だから厳密に言えば、カーブミラーのようなものは普通にあった。
鏡を見て身だしなみを整える習慣がないから、みんなどことなく不細工だった。人に見られているという意識、自分が人からどんな風に見られているかという意識が乏しいようだった。髪の毛がみんな何となく多い。美容院に通う頻度が違うのだろう。そもそも美容院のようなところに通う人間は変わった人間、自意識が際立って強い人間だと見做されるようだった。そういう世界では不思議なことに、顔が左右対称じゃない人がとても多い。テレビに出て来るタレントや女優だって、平均よりは整っているかもしれないけれど、現実と比べると見劣りがした。また、みんなどことなく虚ろで、映されているという意識が乏しいように見えた。
佐々木冬華も例外ではなかった。僕が心底恋しく思っている現実の佐々木冬華の髪の毛は比較的短くて、太陽の光が差せば頭に白い輪が浮くほど艶々している。笑顔は多く、明るい。ところが僕が自由に情欲を満たせる方の冬華の髪の毛は長く、少し硬く感じる。やはり顔の左右は対称には見えず、右目を細め、左目を広げる表情の癖がそのまま固定されているせいで、いつも訝し気な顔に見える。眉毛も、余計なところに産毛が生えていて、なんとなく頭が悪そうな顔に見える。僕は冬華とセックスをしていても満足感が乏しかった。こいつは本物じゃないと思っていたから。相変わらず彼女をうつ伏せにして、背中のほくろを数えたりしながら、これが現実の冬華にもあるのだろうかなどと考えては欲望を扱き出していた。多分僕の顔は整っている方なのだろう。僕が恋をした冬華がいる現実より、眠ってから来る変な冬華のいる世界の方が僕はモテた。調子に乗って佐々木冬華に告白してしまう程度には僕はモテた。佐々木冬華は僕の告白を何てことないように受け止め、それからできる限り一緒にいることになった。僕はどちらの佐々木冬華にも罪悪感を持っていた。手の届かない冬華の代わりに告白をして、僕が恋する冬華と同じ身体を持っているだろうこの子をうつ伏せにして顔を隠したまま行為を繰り返すこと。本物の冬華とはろくに口も聞いたことすらないのに、裸になったときにだけ分かる、ほくろの数とか、そういうことを知ってしまっていること。


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僕はもう何度も、とっくに目を覚ましていたつもりだった。冬華と親密な関係になれたのはあくまで夢の世界で、現実では所詮そんなことあるはずがなく、目が醒めればいつも通りの日常。やけに生々しい感触のある夢だなんて目が醒めたときに思ったのだけど、病院で目が醒めたとき、それまで現実だと思っていた世界すら夢だったことに気付いた。混乱はしなかった。夢の中で夢を見たことくらい誰にでもあるだろう。不思議なのは夢の中で見た夢に連続性があり、夢の中で見た夢から覚めた夢の世界にも連続性があって、僕は夢の中で見た夢から覚めたとき、今日も同じ世界の夢を見たななんて思いながら学校に通い、授業はきちんと進み、部活をすれば筋肉痛になったりして、普通に連続性がある世界で生きていたということ。伝わるかどうかはどうでも良い。これは僕のための記録で人に見せるつもりはないし、仮に誰かに見られたとしても夢の話で済む。それに片思いで終わった惨めな恋を何とか美化しようとする惨めな男子の気持ち悪い日記ということでみんなそっとしておいてくれるはず。僕が何か犯罪でも犯したらこの文章は公開されると思う。何の足しになるか分からないけれど、僕の精神状態の異常性を推察する材料になるかもしれないし、情状酌量の材料になるかもしれない。いずれにせよ都合の良いように使われるのだと思う。
思う。
僕はどんなに深く夢を見ていても佐々木冬華のことが好きで好きで仕方なかったということ。一番深いところで佐々木冬華とセックスする夢を見て、目が醒めて夢だったと思ったら夢だったと心底ガッカリして、夢の世界で見た偽物の佐々木冬華の身体に本物の佐々木冬華の顔や声を添えて欲を満たす。今思えば夢だった現実の世界ではろくに佐々木冬華に話しかけることもできず、そんな気持ち悪いことをしていたわけだけど、あれも夢だったのならちょっと勇気を出せば良かった。夢の中で見た夢の中でまで想っていた人に、僕は純粋に恋をしていたのだと自信を持っていえる。邪な気持ちがあっても、顔かたちが変われば冷める気持ちであっても、多分この感情は純粋なんだと思う。本当に目が醒めた今となっては、一番本当の現実の今となっては、もう佐々木冬華に会うこともできない。
僕が寝ている一年の間に、佐々木冬華が兄に殺されたからだ。正気に近づけば近づくほど佐々木冬華から遠ざかっていく。結局縁がなかったのだ。


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佐々木冬華が兄の文哉に殺されるというのは僕にとって突拍子の無いことだった。兄は僕の同級生で、妹のことが大好きだった、崇拝すらしていた。冬華を下心のある目で見る事を、彼は絶対に許さなかった。文哉と冬華の間で何が起こったのか。僕が眠っている1年の間、二人に何が起きたのか。僕が最初に考えたのは、寝ている間、彼女に恋人ができたのかもしれないということだった。兄が嫉妬して殺した。冬華が誰かに奪われてしまったことを察知して、自らの手のうちに取り戻そうとした。一番深い夢の中の文哉であれば、もしかしたら妹を殺すということもあるかもしれない。妹では感動しないと言って、妹の記憶をすべて意識的に洗いながし、脳みそのメモリーを芸術の記憶に充てた男だ。妹に愛着なんてない。顔は現実の文哉より不細工だっただろう。そもそも現実の文哉もそれほど顔が良いわけではないけれど、清潔そうな髪の毛と、冬華そっくりの大きな目がチャームポイントだった。一番奥の夢のあの兄妹であれば、もしかしたら何かの拍子に仲違いが起きるかもしれない。現実の彼らの間で仲違いが起きるとしたら、予想した通り、冬華に恋人ができたという状況しか考えられない。その場合、僕は男の方を殺したくなるが、倒錯した愛はどういう形になるか分からない。彼が妹を殺したと聞いたとき、これも夢かもしれないとまたベタなことを思った。
佐々木冬華はある冬の日の夜、眠っているとき枕に顔を押し付けられて死んだらしい。兄が彼女に馬乗りになり、頭からお湯をかぶせる。お湯を使ったのはせめてもの優しさで、目的は、彼女の使うふかふかの枕に水分を含ませれば確実に窒息させられると思ったからだそうだ。文哉は彼女の頭をもう一つの枕で後ろから抑え、ろくに暴れる時間も与えないまま、冬華を殺したらしい。強烈な既視感に襲われた。彼女を殺したのは僕だと思った。兄が彼女の頭を抑えたように、僕は行為中、佐々木冬華の頭を抑えたのだった。彼女は息ができるように思い切り首に力を入れて顎を引き、ヒュウヒュウと歯の隙間から呼吸をしているようだった。呼吸を封じようと思えばできた。僕が見た夢が現実に浸食したのだと思った。そうでなければ文哉が妹を殺すなんてできるわけがないし、妹を殺したことは認めたらしいがその動機については口を噤んているようで、誰も何も分からないらしい。おそらく本人にも。そして噂レベルでは、彼女に恋人がいた様子はないようだった。文哉が察知したのは僕の存在なのではないかと思った。僕が一番奥の夢の世界で冬華とやったことを文哉は知っている。文哉は文哉で僕と同じように鏡の無いあの夢を見ていたのだ。冬華を崇拝していた文哉だから、あの夢の世界の偽物の冬華が気に入らなかったのではないか。そもそも認めず、ありえず、この妹では感動しないと本人に言って憚らなかったのではないか。その記憶が現実に浸食し冬華を殺した。無意識に近い殺意。リセットの感覚か、もしくは見当識の欠如が。これが妹殺しの真相なのではないか。
僕は病室でこんな妄想に取り憑かれ、どうにか辻褄を合わせようとするのに必死だった。冬華がいない現実で目を開けてしまった僕は、どうにかして冬華との繋がりを探して納得しようとした。どうせだったら僕が殺したかった。現実では触ったこともなかったんだ。
ただ、僕は気付いていた。冬華が死んでいようがいまいが、永遠に言葉を交わせなかっただろう僕にとってあまり違いはないのだということに。それほど悲しさも感じず、死者である佐々木冬華を思うことと、家で、寝る前に佐々木冬華のことを思うことにさしたる違いはないことに。


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この文章を書き始めた最初に気付いたことがある。僕が一年の長い眠りに陥る前に抱いたイメージは、佐々木冬華が殺される瞬間に経験したこととそっくりではないか。背後から大きな輪が頭に覆いかぶさるような気がして、それから重低音。溺れるような錯覚があって、緞帳が降りるようにゆっくり意識を失う。文哉は寝ている佐々木冬華に近づいて、暖かいお湯を浴びせたら、意識が覚醒しないうちに後ろから頭を抑え付ける。二人はそれぞれ唸り、冬華は息ができなくなる。それは失恋のイメージでもある。誰かが放り捨てた婚約指輪が、ほんの数回だけ回転して落ちる。それからしばらく誰も知らないところで茶番が繰り広げられる。
きっとその茶番の真只中で僕らは出会った。季節も時間も方角もろくに分からないところで僕らは出会った。
何度となく、僕が混乱しそうなほど二つの世界を行き来していることを話した。この世界の冬華とはこうして話せるけど、もう一つの世界の冬華とはまだ話したことないんだ。話しかけることができない。そう言った。
「なぜだ? きっとそっちの私も君に話しかけられればうれしい」
いつもこんな口調で話すヤツだった。僕はこの話し方も気に入らなかった。なぜだと聞かれれば、「もう一人の冬華の方がお前よりずっと可愛いんだ」と言ってやった。すると冬華は笑う。「私も本気を出したら君にもっとビクビクしてもらえるだろうか?」彼女は屈服していた。罵られたり蔑ろにされたりすることは兄で慣れ切っていた。僕に乱暴なセックスをされても、こんな暴言まがいなことを言われても、彼女は僕と話すとき、嬉しそうだった。僕は卑怯にもこんなことを言った。もう一つの世界の冬華の笑顔は可愛くて眩しいほどだから近寄りがたいけれど、僕があの子の笑顔を引き出したことはない。今の君は顔が左右対称じゃなくて、髪の毛も多いし、眉毛の産毛は気になるけれど、他ならぬ僕に向かって笑っている。どっちが大切かなんて言うまでもない。
「そうかそうか」
冬華は満更でもない顔をして、空を仰ぐ。清々しい気持ちがすると言って少し涙ぐんでいる様子だった。「私も努力すればそんな風になれるということだろうか」「会ってみたいな、一度」と彼女は言う。「お手本にしたいな」
とりあえず眉を剃ったらどうだろう。なんなら僕がやってあげる、と言うと冬華は下手くそな笑顔を浮かべた。上品に微笑んだつもりらしかった。

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今となっては、僕は情けない。僕は佐々木冬華がこれくらいの容姿にならなければ僕とは話もしてくれない、僕とは釣り合わないと思ってたんだ。僕は自分に手が届きそうという意味で理想の冬華を自分で作り上げておいて、その上でこいつで妥協してるなんて思ってたんだ。僕は自分の倒錯や傲慢や卑屈さを抑え付けるみたいに冬華の頭を抑えながらただ出すものを出していた。病院で目が醒めたとき、僕が一番気になったことも最低だ。僕は自分が夢精していなかったかどうかが一番気になった。あの佐々木冬華に向かって出した欲がすべてこの病院の職員に見られていたのではないかと思って恥ずかしくなった。現実の佐々木冬華が兄に殺されてしまったと聞いたときも、一番に考えたことは、これで夢の世界で見た佐々木冬華の背中のほくろが本物の佐々木冬華にもあるのかどうかを知る術が永遠に失われたって思った。
「私の背中のほくろ、星座になってるって気付いたか?」と彼女は、ある日の行為中、珍しく弾んだ声で、うつ伏せになりながら言ったのだった。「兄が唯一褒めてくれたところだ。小さい頃、一緒に風呂に入って、私の背中をスポンジでこすってくれたときに言ってくれたんだ。お前の背中のほくろ、おうし座になってる。ほら、このVの字。冬の初め頃、東の空に大きく見える、勇敢で忍耐強い星座だよ。少しじれったいところがあるけど、繊細で芸術を愛する星座だよ。兄ちゃんがそう言ったんだ」
僕が知ってる佐々木文哉では絶対に伝えられないことだった。いくら妹のことが好きでも、背中のほくろがおうし座のように見えるなんて、無学なあいつは絶対に気づかない。ああこの子は、兄のそういう言葉を大事にここまで生きてきたんだなあ、その兄に忘れられようとしてるって悲しいだろうなあ。可哀想だなあ。僕はそんな風に思ったけど、思っただけで口には出さず、彼女が自慢にしている星座もろくに見ることなく、行為に打ち込んでいた。


8/8
忘れないようにしたい。
一番多くの言葉を交わし、身体を重ねて、一緒に昼も夜も分からない時間を過ごした。僕らの中には友情があり、性欲があり、いくつか印象的な出来事がある。初めて会った日から手を繋いでいた。見当識を捨てるんだと教えてくれて、昼も夜も分からない青白い道を歩き、僕の家を教えてくれた。告白したらなんてことない顔をして、それからできるだけ長く一緒にいることにした。偽物って思っててごめん、代わりに使ってごめん、恋心のはけ口にしてごめん、粗末に扱ってごめん、頭を押さえてしまって、手が冷たいと言って離してしまってごめん。君の忍耐強さに甘えてしまってごめん。内心、本物の佐々木冬華のことをずっと心に抱えたまま君と接していたことを謝りたくて仕方ないけど、僕の手で閉じた僕の恋に会えることはもうなく、謝る機会もない。君の背中を愛でて、ほくろをなぞり、おうし座の形を知らなくても、ほらここに、と指でなぞればよかった。空に拳を突き上げた黄金の君のカッコよさを、もっと尊敬すれば良かった。
恋なのだ。どんな世界でも大切なのは、恋なのだ。
見当識を捨てるんだ。ここがどこで、何時頃なのか、分からなくするんだ。そうしたら、記憶を失いつつある人間が今どんな世界にいるのかが分かる。彼女は、大声で言う。忘れられることを恐れる彼女を、放り投げられた指輪が一瞬だけ宙で光ったあの日、僕は見たのだ。
僕は看護師さんに初めて意義のある質問をした。
「冬の星座の図鑑かなにか、病院の図書コーナーにありますか?」
「多分あると思うけど……」と僕の夢精を見たかもしれない看護師さんが言う。「何に使うの?それにいま、夏だけど?」彼女は僕が目覚めて間もないから、季節も分からないと思ってるんだ。「分かってます」と僕は笑う。
ただちょっと、おうし座の探し方が知りたくて。

ポニアトフスキーのおうし座(完)

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