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記事一覧

内部被ばくと、減らない土壌汚染 〜南相馬避難・20ミリシーベルト撤回訴訟〜

内部被ばくと、減らない土壌汚染 〜南相馬避難・20ミリシーベルト撤回訴訟〜

 〝年間被ばく20ミリシーベルト〟という、通常より20倍も高い基準を撤回させようと闘ってきた「南相馬避難・20ミリシーベルト撤回訴訟」の原告団たち。
 先日の記事では、不当判決が出たことを、お伝えした。

 今回の記事では、原告たちが、この6年間、支援者らとともに明らかにしてきた、内部被ばく調査と、環境汚染の実態を紹介したい。

■空間線量が下がっても、土壌汚染は残る メディアでは、「放射線量は下

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「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」のヒドイ判決を分析してみた

「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」のヒドイ判決を分析してみた

 福島第一原発事故後、〝年間20ミリシーベルト〟という、通常より20倍も高い被ばく基準を押しつけられている福島県。

「つぎに、どこかで原発事故が起こったら、この〝20ミリ〟という、とんでもない数値が適用されてしまう。そうさせたくないから闘うんだ」

 そんな思いで立ち上がった「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の原告たち(206世帯、808人)は、2015年4月、国を相手取り「年間被ば

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証言③会社を守るために避難せず初期被ばく。「直ちに健康に影響はない」という言葉は今も許せない

証言③会社を守るために避難せず初期被ばく。「直ちに健康に影響はない」という言葉は今も許せない

南相馬市原町区在住 牛渡美知夫さん(67)取材日2018年 11月3日 

 牛渡さんは、自らが経営する食品会社と商品を守るため、原発事故のあとも避難はせず、南相馬で暮らし続けている。当時、身をもって体験した初期被ばくの恐ろしさを思い出すと、あのときの官房長官の発言に今も腹が立つという。周りに話してもなかなか理解されないが、当初の被ばくのことを記録として残してほしいと語る。職業柄、自分が食べる作物

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証言②きのこを食べたら、尿からセシウムが出た、健康不安もついてまわりますよ。

原告団団長 菅野秀一さん(79)南相馬市原町区高倉行政区在住
取材日;2019年1月19日 

 菅野さんは、南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟の原告団長だ。原告のみなさんは、菅野団長の指揮のもと、提訴前から週に一度、放射線の勉強会を続けてこられた。長年、市議会議員や区長を務めてこられた人望の厚い菅野さんだからこそ、原告のみなさんをまとめることができたのだろう。 このページに、原告の小澤洋一さ

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「南相馬避難・20ミリシーベルト基準撤回訴訟」 原告、それぞれの10年。

「南相馬避難・20ミリシーベルト基準撤回訴訟」 原告、それぞれの10年。

 2011年3月11日——。東日本大震災、続いて起きた東京電力第一原子力発電所の事故。
 この事故によって、私ですら人生を変えられた。
それまで、一度も〝福島〟に行ったことがなかった私でさえ、も。

なによりショックだったのは、国が、福島県の人々に年間被ばく〝20ミリシーベルト〟という通常の20倍以上もの被ばく量を適応したことだ。
そのなかには、子どもも、赤ちゃんも含まれていた。

 国は、東電は

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証言①また、どこかで原発事故が起きたら20ミリ基準が適応される。そうさせたくないから裁判をやったんだ

原告副団長 藤原保正さん(75)取材日:2018年12月9日

 藤原さんは南相馬市の生まれ。発災当時は、市内に工場を持つ藤倉ゴム工業(現・藤倉コンポジット)に勤め製造部門で管理職として働いていた。当時は、妻・息子夫婦、小学校1年生と、3歳の孫、91歳になる義父と6人家族。市内の大町病院には、83歳の義母がリハビリ入院中だった。
 原発事故によって避難を余儀なくされたことから、事故から半年の間に義

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子ども脱被ばく裁判第21回公判傍聴記

子ども脱被ばく裁判第21回公判傍聴記

 10月1日、「子ども脱被ばく裁判第21回公判」を傍聴。いよいよ証人喚問が始まった。

 この日、原告側の証人に立ったのは、3名。放射能測定を長年続けている河野益近さん。原爆の被ばく者250人の主治医であり、現在は、福島の子どもたちの健康診断などを行なっている医師の郷地秀夫さん。そして、原告で元・原発作業員の今野寿美雄さんだ。

 この裁判では、原告らが住む福島県内の自治体に対して、「子どもたちが

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平和への祈りを込めて語り継ぐ――「ひめゆり」と「島唄」

平和への祈りを込めて語り継ぐ――「ひめゆり」と「島唄」

 日米双方の軍人、民間人を合わせて約20万人が亡くなったといわれる沖縄戦は、74年前の今日、終結しました。

 この沖縄戦によって、沖縄県民の4人にひとりが命を落としたといわれています。

 先日、「ひめゆり平和祈念資料館」の前館長、島袋淑子さん(91)に取材をさせていただいた話を書きましたが、今日は、それにちなんでもうひとつ書き留めておきたいと思います。

■当事者たちが、募金を集めてつくった「

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福島と沖縄、そして、ひめゆり

福島と沖縄、そして、ひめゆり

 福島で原発事故が起きるまで、私は、沖縄のことを深く考えたことはありませんでした。
沖縄戦があったこと、基地をずっと押しつけられてきたこと、それが深い差別のうえに立っていること……。
そんなことを、たいして考えずに生きていたなんて、本当にバカだったなと思います。

 原発事故が起きたあと、〝福島〟と〝沖縄〟が比較されるようになり、福島を取材するなかで、少しずつ沖縄の歴史とも向き合ってきた、という感

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孫が甲状腺がんになりました~子ども脱被ばく裁判の集会で参加者が訴え~

孫が甲状腺がんになりました~子ども脱被ばく裁判の集会で参加者が訴え~

「はじめて参加します。今朝、福島駅前で、この裁判のチラシを受け取って、その足で傍聴しに来ました。というのは、うちの孫も甲状腺がんになったからです」

 福島地裁で5月15日に行われた「子ども脱被ばく裁判」第18回期日。
終了後の報告会で、ひとりの女性が、そう話し始めました。会場の空気は、一気に張り詰めました。
女性は、努めて冷静に話そうとしていましたが、その声はうわずっています。彼女のお孫さんは、

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モニタリングポストのない大熊町の新庁舎

モニタリングポストのない大熊町の新庁舎

 令和になって初の福島取材は、福島第一原発の立地自治体である大熊町。連休中盤の5月2日に行ってきました。
 大熊町の多くは、今でも帰還困難区域ですが、今年4月10日、大川原地区という比較的放射線量が低い地域のみ避難指示が解除されました。これは第一原発立地自治体では初めてのことです。
 そして、この避難指示解除に合わせて、役場の新庁舎も大川原にオープンしました。

 実は2年前の2017年6月、この

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