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便利がいつも最適というわけではないよね

「便利な世の中になったよね」

よく母が言っていた。
25歳の私でさえ、自分が幼かった頃と比べて便利になったなぁと感じるくらいだ。
母の年齢の人からしたらもっと驚くことが多いだろう。

タクシーを呼ぶのもスマホ一台あれば時間指定までして呼べるようになった。
自炊する気力がないときお金さえ払えばどんな天候の時でも家まで食べたいものを運んでくれる。これもスマホ一つ。
友人へ送るプレゼントも、スマホでギフト券を送ることもできる。これもスマホ。
新年の挨拶だって今もなお年賀状を書いている人はどのくらいいるのだろうか。

便利な世の中でよかったと思う反面、こんなに便利にばかりなっていっていいのだろうかと思う時がたまにある。

地方のほうではタクシーはまだ電話で呼ぶか道で捕まえるというところもあるだろう。
その地域に昔からある古いタクシー会社なら尚更だ。
便利なシステムが導入されようものなら、きっとその地元の企業は廃業に追い込まれるか便利なシステムの波に乗らなければならなくなる。
そんな機能を知らない高齢のお客さんたちは、「最近タクシーが捕まらないのよねぇ」なんて話し始めるかもしれない。
「なんだか今電話じゃなくてあれでやるんだってよ、若いひとみんな持ってるやつ」
「私たちには難しいね〜電話するのが一番手っ取り早いわ〜」
そんな声が聞こえてきそうだ。

家の近くにある飲食店へ足を運ぶ。
ネット注文したって直接行ったってお店の儲けにはなるんだから変わりないかもしれない。
でもお店は腹を満たすだけの場所ではない。
その街のコミュニティを形成する場所になっていたり、誰かにとってのサードプレイスだったりする。
店員さんとの何気ない会話、出来立てのあたたかいご飯、そういう直接行った時にしか感じることのできない温もりがそこにはある。

直接会えない友人に何かプレゼントしたい時、確かにスマホ一つでギフト券を送るのは確かに便利だ。
でもプレゼントを渡すくらいの関係性で、直接会えるなら私は直接手渡ししたい。
その人のことを想ってプレゼントを選んだ時間、丁寧な包装、直接会う時にしか見えない表情や声。
「自分のことを想って選んでくれたんだ」という気持ちが一番嬉しい。
スマホ一つでも選んだといえば選んだのかもしれないが、選ぼうと思えば指先1分で終わってしまう。
少しあっけない。

幼い頃、年賀状が楽しみだった。
新年になると毎日のように何十枚も年賀状が届く。
その中から自分宛の年賀状を探す時間がわくわくした。
人によっては全て手書きで干支の絵を上手に描いてくる人や、家族の写真をつけている人もいて、なんだか特別な気持ちになった。
一枚一枚相手を想って書く時間、しばらく会えていない人を想う時間、昔からの付き合いの友人の家族が増えたこと、子供がこんなにも大きくなったんだなんて、思い出に想いを馳せるあの時間。
今では近しい人にLINEを送るだけになっている人も多いだろう。
私もそうだ。いつからか、年賀状を書かなくなった。

たまに大学時代の友人が手紙を送ってくれる。
その時の嬉しさは、久しぶりにLINEやメールが来たときとは全く違う嬉しさだ。
直接便箋に言葉を綴ってくれた、文字を書いてくれた、それをポストへ投函してくれた。
手紙は手間がかかる。
その手間が嬉しいんだ。手間をかけてまで届けようと思ってくれたその気持ちが嬉しくてたまらない。

今や本や雑誌もスマホやパソコンで読める。
でも私は紙が好きだ。
紙の質感とページをめくるあの感覚。
たまにデジタルで読むことがあるけれど、私にはあまり合わないみたいだ。

便利すぎるとも言えるこの時代。
もちろん頼るところは最新技術に頼っていく。
でもアナログで愛したいところもあるよね。
デジタルで全て済ませられるならデジタルがいいという人もいるだろう。
それはそれでいいんだ。
選択できる自由があるから、私はデジタルとアナログをうまく生活の中で使い分けていきたい。
アナログも忘れないように。
アナログにしかない温もりや柔らかさ、めんどくささを感じたい。


『限りある時間の使い方』(オリバー・バークマン著)を読んでいてふとそんなことを思った土曜日でした。
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