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ブランク25年のピアニスト

なぜ、こんなことになってしまったのだろうか・・・。

数年前の2月、ある日のことである。

そこは、地域の高齢者施設で行われる、子育て支援イベントの会場だった。地域の子どもとおじいちゃんおばあちゃんを繋げるべく、歌や手遊びをしながら、多世代が交流するという名目で、およそ30人程度が集まっていた。

子どもたちの活動の内容を決めて、イベントの運営をしていくのは保育士さんたちの役目。広報や受付、会場の手配などの準備を僕たち事務職が行っていく。施設の方には、高齢者の健康状態や当日までの準備をお願いし、当日もイベントの中で補助していただいたり、参加できない方へのケアをしていただく。

僕は、受付を終えて、写真撮影のためのカメラをぶら下げたまま、部屋のすみに置いてあったピアノに向かって腰掛けていた。

ピアノに据え付けてある譜面台には、童謡の「ゆき」と「たきび」の譜面が並んでいた。

「じゃあ、もつさん、お願いします!」保育士さんの明るい声が響く。

”みんなでうたおう、2がつのおうた”

イベント内のプログラムである歌の伴奏のピアノを、僕が弾くことになっていたのだ。


ふつう、保育士さんってピアノを弾いて子どもたちと歌ったりするんじゃないですか?

そんな疑問は、とっくに何度も頭の中を駆け巡っていて、間違いなく「ピアノを弾きながら子どもたちと歌う」イメージの”ない”事務職が、ピアノに対峙する姿は、不思議に見えただろう。

保育士を差し置いてピアノを弾く男・・さぞ上手いに違いない。

保育士がいるのにピアノを弾くことになった男・・本当に弾けるのか。

しかし、小さな子どもたちがいるイベントの場では一定の”演技力”も必要である。笑顔を忘れず、リアクションを大袈裟に、失敗はひた隠し・・そんなぎこちないピアニストの伴奏が始まった。


ピアノの伴奏をしてほしい・・と言われた時には、冗談かと思ったけれど、どうやら本気で必要なようだと気がついたのは、開催の1ヶ月前。童謡のピアノ伴奏曲集をアマゾンで買い、2曲をさらうこと数日。イベント直前には、仕事を休んで一日中家のピアノを弾き続けた。子どもの頃、発表会でさえもこんなに練習したことはなかった。

中学校に上がるタイミングでピアノを習うのは辞めてしまったから、ブランクはおよそ25年あった。小学校3年生から始めたピアノは、終ぞ得意にはなれず、一般的に練習本として通過する、バイエルやソナチネなどは一切やったことがなかった。だから、ピアノを弾けるといえば弾けるけれど、基礎という部分は全く頼りないものだったのかも知れない。

歌の伴奏は、タッチを間違えても、止まったり弾き直しができない。テンポを一定にし、苦手な部分で遅くなったりしてはいけない。さらに、譜面には書いていない”前奏”を弾かないといけない。

数々の難関が待ち受け、それを正面から受け止めながら、自分の苦手と戦い、自分の不甲斐なさに憤怒し、暖房を入れ忘れてかじかむ手指を励ましながら、薄暗い室内で練習した。

本番は、一発勝負である。それなりの人数が集まり、どんなイベントになるか、それぞれに期待がある。その中で、みんなで声を合わせて歌うことは、どれだけの意味を持つのだろうか・・そう、大変重要なのである。当初は、伴奏の音源を流すといった発想もあったが、電源コードが危ないなどの配慮と、せっかくピアノがあるのに弾かないのか・・といった真っ当な意見もあり、弾くことになった。


家の電子ピアノも結構本物らしい音が出ていたけれど、施設にあったピアノは、格別だった。(タイトルの写真がその時のピアノ)

弾き手は下手くそなタッチだったけれど、鍵盤を叩くたびに、倍音がぎゅっと含まれた音色が響く。一つの音だけでもとても艶やかだったけれど、和音が出るとその響きはとても豊かだった。

実はイベントの設営中に少しだけ弾かせてもらったのだが、初めて鍵盤に触れた時にその軽さに驚いた。こんなに繊細ならば、こちらももっと力を抜かなければと、ふっと楽になる感覚があった。

伴奏としては、止まらず、ブレず、なんとか弾き切った。心配していた前奏も弾いた。緊張すると”走る”(演奏の速度が速くなる、転ぶとも言う)ことがあるが、元々弾けないから走れもしなかった(笑)。

タッチをミスすることは度々あったけれど、子どもたちの大きな歌声がそれをかき消してくれたのだった。


施設の方が、イベント終了後に教えてくれた。

ピアノは、以前その施設を利用されていた方(きっともうこの世にはいらっしゃらないのだろう)に、音楽家だった方がいて、その方から寄付していただいた楽器なのだそうだ。音楽を生業としている方のピアノだったと聞いて、その音色のよさ、タッチの軽さを改めて実感した。

少なくとも半世紀の間、そのピアノは音を出していたはず。施設でもなかなか弾く機会がないと言われていたから、主もどこかで聞いていてくれたかも知れない。

「いつでも弾きにきてくださいね」とまで言っていただいた。それは、施設の方の社交辞令でもあり、あのピアノからの挑戦状なのかも知れないと、ふと思い出した。


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