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みずからを、感じるとか、覚えるとか

コスパとか、タイパとか、効率化や時短といった言葉が叫ばれて久しい。何事も”はやく””無駄なく”やることがいいらしい。

反対に、あえてゆっくりと、時代の潮流から一線を画すような言葉もある。スローフード、スローライフなど、丁寧な暮らしとして表現されたりする。

子どもと大人では時間の感じ方が違う、というのは多くの人が経験したり、体感していることかも知れない。実際に、自分の子どもと話していると「来年」が永遠に来ないのではないかという感覚だったりして驚く。

子どもと暮らしていると、子どもが今を生きてるなぁ・・と思うことが多々ある。

楽しい今が大事・・とばかりに、食事やお風呂の声をかけても遊び続けていたりする。明日の持ち物よりも、今のテレビ・・を優先して、翌日忘れ物をしたりしている。・・ん?、ちょっと違うか(笑)

かたや、大人はどうだろうか。

先のことが気になったり、過去のことに囚われてしまったり、今を生きているのだろうか。今が大切だと思えているのだろうか。

バクゼンさんが、その名前に相応しい”問い”を投げてくださった。

問いとは「今を生きる、今を慈しむ」とは・・・である。

コメント欄にどうぞ・・とあるけれど、コメント欄の文字数は500文字なので、書ききれない。投稿にしようと思ったけれど、いかんせん前置きが長くなってしまった。

数年前から、自分や社会の”いま”を感じることで、心身を整えることを目的としている考え方がある。

それが、マインドフルネスと呼ばれているものだ。言葉としては「瞑想」のような意味合いで使われているが、実際にはそれは手段であって、目的としては「自らの気付き」なのだという。

マインドフルネスを実践する、みたいな本を読むと「自分の感覚を自らに向ける」といったことが書いてあって、それはつまり、自分が座っているなら座っているものを、食べているなら食べているものを、感じなさいということらしい。

そうすると、そこに自分の考えていることとか、体の不調のようなものが自覚されてくる。タイトルの「覚える」は”記憶する”という意味ではなく、”そのように感じられる”という意味である。


そんな知識を得て考えるのは、今を生きると言うのは、その時に判断している自分の感覚のことなのではないか。

判断する頭脳的な動きのほかに、身体をどう使うか、何を話すか、何を見るか、取捨選択のその時々のことをきちんとしているはずである。

それが間違っていたとしても、それは生きていることだから。

味が感じられなかった、間違ったことを言ったかもしれなかった、それは今を生きていない、とは言えない気がするのだ。

たいして「今を慈しむ」とは、いまここと言うよりも、過去のことを思い出している感じがする。

可愛がる、大切に思う、そんな意味の言葉だけれど、個人的な思いとしては、ポジティブな発想に偏っている気がして、怒りや憎しみ、嫌悪の感情が否定されているような感覚がある。

果たして、語義のとおりに常に今を慈しむことは難しいと思うのだ。

生きるとは、その場その時の瞬間の連続であり、慈しむとは、あの場あの時の記憶のことではないか。記憶は美化されるし、そうであって欲しいものだ。

様々なことに視野が広がり、落ち着かずに時間を過ごす人の方が、クリエティブであるようだ。対して、一つ一つに時間をかける人には、洗練された視点を感じることがある。

どちらがいい悪いではないけれど、自らの人生を慈しむことができるひと、誰かの人生に感謝できるひとは、きっと豊かなのだろうと思う。

なんだかまとまらずにここまできてしまったけれど、とにかく個人差のある暮らしの中で、一緒に歩いてくれる家族や、少しずつ良くなっていく社会、変化していく世界を、慈しむ視点や瞬間は忘れたくないと思った。

バクゼンさんの思いがけず深い問いに、数日間モヤモヤと考えてみた。やはりnoteで良かった思える出会いのひとつになった。



#考え事 #問い #今を生きる #今を慈しむ





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