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月曜日の図書館34 見えない青を描く

調査の回答を送ったら、絵文字たっぷりで感謝の返信が来る。絵文字から一番遠そうな名前とメールアドレスの人だった。うちの事務室のパソコンが文字化けを起こさずに絵文字を表示できたことに感激。

ロイヤルブルーがどんな色か説明してほしい。よく電話で尋ねてくるおじちゃんからかかってくる。色の辞典をめくると「さえた紫みの青」とある。紫み。青系統だけでも無数の微妙な違いがある。マンセル色相環を見つけてなつかしくなった。高校の美術で習っていたことと、自分の好きなお絵描きの間に関係があるなんて、マンセルのせいであの頃は全然気づかなかった。紫みの青と読み上げても、おじちゃんはあまりぴんときていない。紺色ってこと?ロイヤルってことは華やかなの?藍色に似てる?でも藍色とは違うのかあ。自分で納得するように何度もくりかえしそう言って電話を切った。

おじちゃんは目が見えない。

K川さんがいつもの習慣でインクボトルを振ってしまい、あたり一面にインクが飛び散り、事務室が一時騒然となる。以前はプリンタに「インクが切れています」と表示されてからも、ボトルを振ればしばらくは印字されていたため、節約精神を刷りこまれたわたしたちは、その表示を見るとパブロブの犬みたいにボトルを振ってしまうのだった。
しかし機種が変わったのだ。
インクは盛大に飛び散った。黒い雨、と思った。幸い周辺には、汚れても困らないか、もともと汚れているものしかなかった。

プリンタはときどき別の係で印刷命令されたものを出力することがある。Wi-Fiに対応しているわけでも、ながーいケーブルでつながっているわけでもないのに、一体どんなSNSで友だちになったのだろう。うちの係では印刷されないような「おはなし会のプログラム」や「入札関係書類」などを平気な顔で吐き出すのだ。同僚の意外な交友関係を知ってしまったときのように、少しどきどきする。

一年前にDがまとめた調査報告書に使われていた、新聞のマイクロフィルムが見たい、というお客さんが来るも、所定の引き出しに見当たらない。仕方がないのでDに来てもらって探してもらう。絶対あるはず、泣きながら調べたからよく覚えている、と言う。捜索の結果、違う棚に間違えて返していたことが判明、無事に見つかった。専用のリーダーにフィルムを通すと、でででで、と壊れそうな音を立てて、画面に大正時代の出来事が映し出される。ラグビーの選手たちがこの地で試合をするために、何日もかけてやってきた、という記事だった。わたしは文章を書くなら使おうと思っていたペンネームが、有名になったラグビー選手とそっくりで断念した怨みを思い出した。
事務室に戻ってからDは、こういうとき慌てなくていいように、今までだったら使った資料のコピーは全部机にしまってたんだよ、異動にならなかったら捨てなかったのに、と言った。

だけどもう、その机は違う人のものだ。

色を人に伝えるのはとても難しい。前に美術館で、ロイヤルブルーのインクで壁に文字を書く作品を見たことを思い出した。インクは水性なので、会期の終盤には薄れてしまう。もしくは条件次第で、まったく消えてなくなることもあるだろう。
言葉でどんなにつなぎ止めようとしても、すり抜けていくものがある。確かな手ごたえを感じても、あっという間にほどけて飛び立ってしまう。

ものすごい暑さ。こんなときはカレーを食べたいが、歩道橋を渡ると太陽と近づいてしまうのであきらめて近くの蕎麦屋に入る。腕時計が溶けて腕と一体化しそうである。
カエルが茹で死にしてはいけないので、マンションの部屋はわたしがいないときでもクーラーをつけっぱなしにしている。おかげで部屋に帰ればすぐに涼しい。人間までそのおこぼれで快適に暮らせるなんて、カエルは本当に尊い生き物だ。
図書館に戻ると、K川さんは歩いて10分以上はかかるごはん屋さんに行ってきた、と言う。せっかくエネルギーを摂取しても帰り道で半分は消耗しそうだ。ちゃんと栄養のあるものを食べたかったから、と汗をたらたら流しながらK川さんは笑顔で言った。

空が染みる。ロイヤルブルーは、この空の色ではない。プリンタから飛び散ったインクの色とも違う。あるいは古い新聞の色でもない。そしていつかは、消えてなくなってしまう。
カウンターで複写申込書にサインを求められ、手近にあったボールペンで書いたら黒ではなくて、思わず大きな声が出た。
ラグビー選手ではないわたしの名前は、紫みの青に輝いていた。

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