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憑依する、その前に…(2)

注:今回は、前回の投稿の続きです。また、今回も多少デリケートな内容を含みます。ご注意ください。ざっと内容を読むのであれば、太字を中心に読んでいただければ幸いです。

 前回の投稿では、共感の特性である「情動的共感」、人間の思考システムについて心理学に知見などを借りながら考えた。

 少し前回を振り返る。共感には、他人が経験している(と思われる)ことを自分も経験してしまう「情動的共感」と相手がどのように感じているかを理解する「認知的共感」があったのだ。そして、SNS時代は「情動的共感」によって駆動しているということは、前回述べたとおりだ。

 では、まず、「情動的共感」の落とし穴について考えていきたい。心理学者のポール・ブルームは、「情動的共感」は「スポットライト」だと述べている。どういうことだろうか?

 例えば、次のような2つの場面を考えてみよう。
 ある場面では、あなたはテレビを見ている。すると、ある貧困国に住む子供達の姿が映し出されている。彼らは非常に悲しげな目でこちらを見つめている。そのあと募金を呼びかけるメッセージが放映された。
 別の場面では、あなたは新聞のニュース読んでいるとする。紙面では、世界で貧困に苦しむ子供達が数千万人以上いることが統計データとともに記されている。そして、文章の最後には募金を呼びかけるメッセージが記載されている。
 さて、あなたはどちらの場面にいたら、募金しようと思うようになるだろうか?おそらく、前者の場面の方が募金しようと思うのではないだろうか。後者のニュースを見聞きしてもあまり募金しようと思わないのではないだろうか?

 このような簡単な例からもわかるように、僕らは特定の何かにしか共感することができないのだ。僕らは崇高な理念や抽象的な概念、統計的数値には共感できない。理由は簡単だ。想像できないからだ。僕らは、具体的にイメージできないことには共感できないことが多い。(逆に言えば、イメージできるものには共感しやすいのだ。募金活動を行う際に、支援対象となる困っている人の写真を提示するのはそのためだ。)

 さらに、上の例を再び用いよう。あなたは、特定の貧困国に関する映像を見て、その国の子供達を支援しようと思ったとする。ところが、これはある意味で、他の貧困国の子供達を助けないということにも繋がりかねない。私たちはある特定の対象に共感することで、他のことに目を向けられないこともあるのだ。

 つまり、「情動的共感」は「スポットライト」のように、ある特定のものを照らし出すが、それ以外のものを見えにくくしてしまうのだ

 さらに、共感にはより大きな ーそして最も厄介なー 落とし穴がある。それは、共感の対象となるものが実在しなくても共感することができるということだ。
 先ほども述べたように、共感は想像できるものに対してなされる。これは、裏を返せば、想像さえできれば実在していなくとも、共感してしまう可能性があるということだ。

 この想像による共感のポジティブな例は、小説だろう。小説の登場人物は、実在しないことはわかっている。しかし、僕らは、小説を読んでいる時、登場人物たちの気持ちに自分の気持ちを重ね合わせて、笑ったり、感動したりするだろう。これは、登場人物たちの動きを想像することによって、共感しているのだ。(そして、共感するからリアリティが生まれる。)

 一方、想像による共感は、時には、非合理な結果を招くことになる。架空の例を一つ考えよう。例えば、自粛ムードと呼ばれるものだ。自粛ムードとは、周囲で不幸な出来事が起きてしまったがゆえに、笑えるような明るい話題などに表立って言及しすることを控えてしまう状態だ。このような自粛ムードは、不幸を負った人の心情に共感することで作り上げられる。この状況では、空気を読まない人に対して批判の声を浴びせることがあるだろう。しかし、空気の多くがそうであるように、明るい話題に触れたくないという他者の存在を想定して、この自粛ムードが作り上げられる場合もある。実際には不幸に見舞われた人たちは少しでも活力を取り戻すべく、明るい話題に触れたいと思うこともあるかもしれないが、その可能性が考慮されることは少ないだろう。結果として、逃げ道がなく暗雲な雰囲気が蔓延し、ますます苦しい雰囲気が醸成されることにもなりかねない。

 この例はあくまで、架空の例であり、事実かどうかはわからない。だが、可能性としては十分に考えられるだろう。さて、ここでようやく、主題に戻ることができる。前回からの投稿は「それを嫌に思う人もいるかもしれないじゃないか!」のロジックについて考えてきたのだった。ここまできて、このロジックの危険性を提示することができる。
 それは、ある事柄に対して、傷つく他者を想像で作り上げ、その他者に情動的に共感することを根拠に攻撃を行ってしまうという危険性だ。また、ツイッターなどのSNSの特性が、ヒューリスティックな思考と他者の存在の想像を促進し、この傾向を加速させかねないということだ。
ツイッターなどは、確かに情報量自体は多いが、ひとつひとつの情報は文字ベースということもあり、他者について知る手がかりは少ない。よって、足りない分は想像で補う他ない。そのため、想像による構築が入り込む余地が大きくなる。

 もし、現在のSNSで見られる攻撃がこのようなプロセスから形成されるものであれば、もはや、他者への情動的共感というよりも想像した他者への「憑依」と形容するしかないような状況が生まれる。他人への「憑依」による攻撃であれば、その攻撃には歯止めが効かなくなる。なぜなら、想像には制限がないからだ。いくらでも、自分が「憑依」する他者を作り上げられてしまう。

 では、なぜ、そもそも他者に「憑依=想像した他者への情動的共感」が必要になるのか。考えられる理由は2つある。
 1つは正当性の確保だ。「私の非難は他の人に認められており正当なものだ」という根拠を(意識的、または、無意識的に)用いることができる。
 2つ目は、他人を迂回することで、自分は傷ついていないことにすることができる。本当は自分が直接傷ついているにも関わらず、それを認めず(精神分析の用語を使えば「否認」)、自分の傷を他人に投影し、自分はそれを代弁しているということにすることで表向きは自分を守ることができるのだ。

 それでは、「憑依」による攻撃はどのようにしたら回避することができるのだろうか。「情動的共感」をやめるというのは非現実的だ。そもそも、「情動的共感」は、意識しようがしまいが、つい、なってしまうものなのだ。そこで、考えられる方法は2つある。

 1つは、非常にシンプルだが、不快なものから離れる、すなわち、傷つく誰かがいると想像させるようなものから離れることだ。しかし、この方法は多くの困難が伴う。僕らの生活は、いくら除去しようとしても不快なノイズが侵入してくる。また、「怒り」や「攻撃」にはある種の快楽的な中毒性もある。ましてや、他人に「憑依」し、迂回することは「怒り」や「攻撃」への罪悪感を低減させる。

 そこで、もう1つ考えられる方法は、「憑依」する前に「たじろぐ」ことだ。「情動的共感」は防ぎようがない。しかし、よくよく考えれば、「情動的共感」をしてしまったとしても、必ずしも攻撃が発生する訳ではない。ヒューム的な考え方で言えば、「情動的共感」と「攻撃」の間に必然的な因果関係がある訳ではない。僕らは人間だ。古い心理学のような刺激(S)ー反応(R)図式で動いている訳ではない。僕らは「刺激」から「反応」の間に「思考」を挟み込むことができるのだ。
 たとえ、「情動的共感」を感じても、少し「たじろいで」考える。
 本当にこれに怒る必要があるのか?別の方法で訴えかけることもできるのではないだろうか?自分は他人にとって傲慢な代弁者になっていないか?その人はどうして人を傷つけてしまうような行動を取ってしまったのだろう?…
 もちろん、不当な行為があった場合には抗議すべきであり、対話や討議を行なっていく必要がある。しかし、その一歩手前で、少し留まって、様々な視点から可能性を考えることも非常に重要だ。

 僕たちの周りはどんどん加速している。あまりにも速く。少しでも歩を止めれば置いていかれそうな気がする。それでも、一度止まってみる。一度とまどってみる。考える。そこから、また始めても、きっと遅くはないだろう…

〈まとめ〉
・「情動的共感」は「スポットライト」のように、ある特定のものを照らし出すが、それ以外のものを見えにくくしてしまう。
・共感の対象となるものが実在しなくても、想像することで共感することができる
・「それを嫌に思う人もいるかもしれないじゃないか!」のロジックには、ある事柄に対して、傷つく他者を想像で作り上げ、その他者に情動的に共感することを根拠に攻撃を行ってしまうという危険性がある。
・想像力には制限がないため、他人への「憑依」による攻撃であれば、その攻撃には歯止めが効かなくなる。
・「怒り」や「攻撃」にはある種の快楽的な中毒性もある。
・他人に「憑依」し、迂回することは「怒り」や「攻撃」への罪悪感を低減させる。
・「憑依」する前に「たじろぐ」ことで、様々な可能性について思考することが重要

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