最後の教室

「匂い」はつまらない日常をハッキングする

 (注:例にも漏れず、長いのでだらだら読むか、太字だけ読んでいただければ幸いです…)

今年の夏。僕は、新潟にいた。お目当ては越後妻有トリエンナーレ。各地に点在する現代アートを1泊2日で見て回った。

 その中で、僕が一番胸を揺さぶられたのは、フランスの芸術家クリスチャン・ボルタンスキーの『最後の教室』というインスタレーションだ。

 この作品は、廃校になった旧東川小学校を丸々作品に変えたものである。ボルタンスキーのテーマは一貫して、「忘れ去られようとする/想起されたこともない記憶の断片をとどめ、現実/虚構、生きるもの/死者、存在/不在の境界線を問い直す」であると考えられ、この作品では、東川小学校の記憶の断片を留める試みがなされている。

 この作品には、真っ黒な肖像写真や暗闇の中で響く心臓音など人間の五感を揺さぶるあらゆる仕掛けがなされているのだが、中でも最も印象的だったのが、「匂い」だった。

 インスタレーションはまず体育館からはじまる。作品内に入るために体育館の重い扉をあける。中に入ると、薄暗い室内に点々とするライトとベンチ、扇風機が多く置かれている。しかし、そのような視覚的な情報よりも、まず何よりも感じたのは一面に敷き詰められた干し藁の香りである。

 干し藁の香りは、住民でもない僕ですらその土地の記憶を思い出すのに十分だった。はしゃぎながら学校に通う子供たち。農作業をする人々。収穫期の新潟の肌寒さ。瞬間的にどこかにあったかもしれない記憶が脳内を駆け巡る。
 記憶に伴って感情も沸き起こる。でもなんとも言葉にしづらいし、いまだにあの感情を指すワードは見つからない。でもそれは、ここではないどこかに対する感情だったことだけは確かだったのだ。

 ふと思う。僕らは「匂い」というものを忘れすぎたのではないかと。というよりも、「匂い」を当たり前のもののように感じすぎていたのではないかと。

 歴史を振り返れば、僕らは明らかに視覚や聴覚ばかりに頼ってきた。文字がない時代は聴覚の時代。文字以降は視覚の時代。映像が登場した20世紀は視覚と聴覚の時代なんて整理ができる。近年では、VRやARなどにより視覚と触覚の時代になりつつあるのかもしれない。

 これらの歴史は、人間による感覚のコントロールの歴史でもあると言えるかもしれない。しかし、嗅覚、つまり「匂い」はいまだにコントロールし切れていない。

 というよりも、そもそも「匂い」というのはコントロールしにくいものなのだ。視覚や聴覚は、ある程度コントロール可能だ。見られたくなければ、隠れるし、気づかれたくなければ、音を発さなければいい。ところが、匂いはどうもそうはいかない。嫌が応にも、「匂い」は漂ってしまうのだ。

「匂い」には他にも多くの特徴がある。

 まず、「匂い」は自分のものであっても、自分とは何か違うもののような感じがするのだ。香水をいくらふりかけても自分の匂いは消えない。「匂い」は最も身近な他人とでも言えるかもしれない。
 さらに、匂いはその時々で変わる。人間の匂いは体調で変わるし、街の匂いもその時々で変わる。
 汗をかいた後の皮膚の香り、雨上がりのアスファルト…たとえ、風景が何も変わらないとしても「匂い」は移り変わってしまうものだ。

「匂い」はなかなか言葉にしにくい。それもそのはずで、口は5つの味覚しかないのに、鼻は396種類の受容体がある。鼻はいろんな情報をキャッチしている。ただ、目に見えないものであり、言葉が追いつかない。

 言葉になりにくいが故に、自分の感じる匂いは自分だけのものになる。「匂い」そのものではコミュニケーションできないのだ。ただ、自分にとっての「匂い」なのだ。
 哲学者のイマニエル・カントはこのようなことから「匂い」「非社交的な感覚」と呼び、以下のように言った。

香りは、他の感覚とその類似性によってのみ比較できるだけで、そのものは表現できない。

 つまり、僕らにとって、「匂い」とは、言葉にもできないただ唯一のもので、他の何物にも替えがたい(共有できない)ものなのだ。

 さらに、「匂い」は何よりも「記憶(イメージ)」と「感情」を自ずともたらしてくれる。
 僕らは、街を歩いているときにどこかから夕食の支度をする匂いが出ていることに気づくだろう。その時に、実家の夕食を思い出したり、夕食の支度をしているその家族の穏やかな暮らしをイメージしたりすることもあるだろう。
 その時、僕らの胸の内には言葉にならない、何か豊潤な感情が沸き起こるだろう。

 さて、少し整理。「匂い」というのは、①コントロールされず漂ってしまうもの ②常に変わりゆくもの ③言葉にならず、自分だけが感じるもの ④「記憶(イメージ)」と「感情」を自ずともたらしてくれるもの である。

 確かに、僕らの日常は「目」と「耳」でほとんど成り立っている。目の前には、いつもと変わらぬ風景があり、耳にしたイヤホンには馴染みの音が響く。こんな日常に飽き飽きしている人もいるかもしれない。

 その時に、「匂い」のことを思い出すのは一つの手である。「目に見える空間」「耳に聞こえる空間」の他に、「匂いのする空間」という別の空間を思い出すのだ。すると、目の前のつまらない景色には、多くの匂いが漂っていることがわかるはず。すれ違う人のフレグランスの匂い、ガソリンスタンドの匂い、落ち葉の香り…普段は気にもとめなかった「匂い」で日常のイメージをハッキング(読み換える)する。そして、それを他の誰のものでもない自分だけのものとして楽しむのだ。

 1日を終えて、疲れ果てて家に帰る。目を瞑ると、汗とシーブリーズの香りでいっぱいになった高校の教室を思い出し、郷愁と恥ずかしい思い出に浸る。自分がどんな人だったのかも思い出しながら、目を開けてみる。自分の家の匂いを嗅いでみる。柔軟剤と入れ立てのコーヒーの香りがする。少し自分への違和感と自分が生きてきた実感という矛盾する感情を感じる。その矛盾に少しばかり笑みをこぼし、また、眠るのだった。

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