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「ぎこちなさ」をめぐる10年代


(注:少し長いので、だらだら読んでいただくか、太字だけ読んでいただければ幸いです。)

 2018年ももう終わる。平成がもう少しで終わり、再来年には誰が望んでるかわからないオリンピックが待っている。もうすぐ10年代が終わってしまう。

 23歳のぼくにとって、10年代は何か「ぎこちない」ものに映った。「居心地の悪さ」などでは決してなく、「ぎこちなさ」なのだ。そして、ぼくは「ぎこちなさ」を快感とし、それを享受してきた一人なのだと思う。

 なので、ここでは、10年代を「ぎこちなさ」という言葉で振り返って見たいと思う。この「ぎこちなさ」という言葉のみで10年代が語れるとは思えないし、現実はもっと複雑だろう。でも、こういうこともあったよね、と少しでも思ってくれるのであれば幸いである。

 さて、この「ぎこちなさ」という言葉についての意味から確認したい。『三省堂 大辞林』には以下のように書かれている。

十分になれきっていなくて、動作や言葉がなめらかでない。

 ここでは「ぎこちなさ」とは、「滑らか=ものとものが完全に接続されている」のではないという意味が書かれている。「なれきる」というのは、「パターンの固定化」と捉えてもいいかもしれない。換言するなら「ぎこちなさ」とは、「パターンがまだ固まってなくて、ものとものが接続しつつも断絶しているさま」とでもいうことができるだろう。

 「ぎこちなさ」の中では、言葉と言葉、動きと動きは一応繋がっているように見えるが、完全にはつながらず、いつでも断絶と接続の契機を孕んでいる。接続はあくまでもひと時のものでしかなくなるのだ。

さて、上記で僕は「ぎこちなさ」とは「パターンがまだ固まってなくて、ものとものが接続しつつも断絶しているさま」と定義してみた。また、それは「不自然さ」や「違和感」を孕むものであることは今の用法から言って間違えないだろう。

僕は10年をこの「ぎこちなさ」の捉え方が大きく二つに分かれた時代として考える。

 まず、「ぎこちなさ」にアレルギー反応を起こしてクリーンさや完全な接続を求める人たちがいる。 

**一方では「ぎこちなさ」の不安定な接続を変化や創造、自由、快楽の源泉として楽しむ人たちがいる。 **

 まず、前者の「ぎこちなさ」を忌み嫌う人たちに顕著な行為は、「ぎこちなさの悪魔祓い」だろう。このような人たちは、世界は一枚の布からできていると考えており、それが破けたりほつれたりするような行為を徹底的に排除する傾向にあると言える。

 例えば、ネット炎上などに参加する人は、決して利他的行為などではなく、自身の安定を確認する作業として参加する。自分がこさえた妄想という滑らかな布(お前はこうあるべきだ!自分は正しい!)を破ろうとする人間を叩く(燃やすことで悪魔祓いをする!)ことで、自分の布が滑らかな一枚であることを証明しようとするのだ。簡単に言えば、他人を叩くことで、自分は一貫した人間(滑らかに接続している人間)であることを証明しようとするのだ。

 他の例を挙げればきりがない。都市をクリーンに保とうとする監視カメラ、体を健康に保とうと喫煙者を強迫観念のように排除する健康マニア、徹底的に編集した自撮り写真をインスタグラムに載せる人たち、同じコンテンツをひたすら電子機器でリピートする人たち…どれも、自身の恒常性(ホメオスタシス)を保つ人たち、つまり「ぎこちなさ」を排除し、「滑らかさ」を希求する人たちだ。

 別に、僕はそれが一概に悪いと言っているわけではない。これらの事柄は、人々に束の間の「安心」を与えるからだ。僕らの環境は流動的で日々変わっていき、不安をもたらすものであるし、どう生きればいいかという指針はもうない。自身の安心できる固定的なパターンを変えることで不安が解消される保証などどこにもない。その中で、一定の安心を求めるのは難しい。よって、安心を求める一つの作法として、「ぎこちなさ」の排除がある。

 10年代は、大きな部分では「ぎこちなさ」の排除のために現実だろうがフィクションだろうが総動員されるような時代だったと思う。

(僕自身も、しばしば同じアイドル番組をひたすらリピート視聴したり、毎日同じものを食べたりするなど「ぎこちなさ」を排除したくなる。)

 しかし、逆説的なことだが、このような人たちは前提として「ぎこちなさ」の存在を受け入れているのだ。世界は決して一枚の布ではなく、ところどころほつれたり破れたりしている、継ぎ接ぎだらけのパッチワークであるということを知っているのだ。クリーンさは追い求めればいやが応にも「ぎこちなさ」が目についてしまうのだ。したがって、安心やクリーンさを求めるには、それを見ないようにするか、自身の妄想を「一枚の布」として修正し、不安要素を徹底して排除するのだ(まるで認知不協和理論の典型のように…)。

 他方、「ぎこちなさ」を楽しむ人たちがいる。世界が継ぎ接ぎだらけのパッチワークであることを肯定し、その断絶と接続を楽しむのだ。世界は暫定的に繋がっているし、切れている。この矛盾した感覚が「ぎこちなさ」の正体だと思う。

 この感覚が現れていたのは主にカルチャーの分野だろう。例えば、音楽シーンでは様々なコンテクストにある音楽をサンプリングし、無意味なタイトルをつけることで新たな音楽を創出しようとするvaporwaveなどがその最たる例だろう。

 他にも、2017年にヒットした『けものフレンズ』は動物を擬人化し、作画も3DCGで描くことで、「ぎこちなさ」を前面に押し出したものだと考えられる。また、今年、本格的に流行したVtuberも身体(声やデスクトップの奥にある身体)とキャラクター(デスクトップ上の身体やそこから想起されるステレオタイプ)と言動(外面にそぐわない内面)が接続しつつ、断絶している部分、つまり、「ぎこちなさ」を楽しむものであると考えられるかもしれない。

 アイドルシーンに標準を合わせれば、2010年代前半を牽引したAKB48は彼女たちのアイドルとしての「ぎこちなさ(アイドルとしてのパターンが固まってなく、チグハグな感じ)」を楽しむものであり、2017年にヒットした欅坂46はセンターの平手友梨奈の「アイドル」という大人の搾取と自身のアイデンティティの葛藤(不協和音!)という実存的不安定さ(ぎこちなさ)のストーリーに感情移入するのだ。

 例を挙げればきりがないが、いずれも「ぎこちなさ」をキーワードとして読み解くことが可能かもしれない。この「ぎこちなさ」は、矛盾するものを接続するとともに、常に断絶する契機をはらんでいる。この接続ー断絶の契機が新たなものを創出していく。パターンが成熟せずに、常に接続と断絶を行き来する。これは、ある意味別のものになることでもある。僕らは、細胞と筋肉と神経の接続と断絶によって犬のようにもなれるし、カニのようにもなれる。ただどこか「ぎこちない」のだ。

 さて、整理しよう。「ぎこちなさ」とは、①矛盾を同居させるもの ②接続しつつ、断絶するもの ③その不自然さから、僕らのパターンを揺らがせるもの ④10年代のある部分では快楽の源泉として享受されるもの ⑤新たなものになる/を作る契機となるもの である。

 僕個人としては、もちろんこの「ぎこちなさを楽しむ」方に賭け金をベットしたい。不安定な感じを楽しんでいたい。「ここではないどこか」ではなく、「これではない何か」になりたいのだ。

 僕は話すとき吃りがちになる。言葉にいつも詰まるのだ。とても「ぎこちない」喋り方になる。もちろん人と話すことへの恐怖から来るのだろうが、一方で別の言葉が訪れるのを期待しているのだ。なぜなら、言葉は句読点が打たれてしまえば意味が固まってしまうのだから…

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