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なんで笑っちゃうんだろう?–基礎編−

(注:今回は、長い上に結構抽象的な部分も多いので、ダラダラ読んでいただくか、太字だけ読んでいたただくか、何かコメントをいただければ幸いです)

「笑い納め」や「笑う門には福来たる」という言葉に代表されるように、年末年始はお笑い番組が多い。

僕は、こたつにこもりながらボケーっとみていた。あんまり普段は、見かけることが少ないネタ番組に頬を緩ます。しかし、ふと思う。「なんで、自分は笑っているのだろう」と。

そこで、思ったのは「笑い」とは「エラーを見つけ、それを処理できたことによる快感」ではないか?ということである。

まず、人間の認知には「スキーマ」「スクリプト」というものがある。詳細な話はここでは省くが、ざっくりというと「スキーマ」とは、「ものを見るときの認識の枠組み(の知識・経験)」のことであり、「スクリプト」とは脚本という意味からもわかるように「〇〇の時は△△する」といったように、「時間的・因果的構造を持つスキーマの一種」である。

 つまり、「スキーマ」とは「その場面を捉えるための枠組み」であり、「スクリプト」「その場面で予想されるシナリオ」のことなのである。

 とまぁ、抽象的に書くと難しいので、一つの例。
 僕らがハンバーガーショップに行くとする。その時、僕らの頭では「ハンバーガーショップ」のスキーマが起動する。すると、「ここはフェミレスじゃなくて、ハンバーガーショップだ」という認識になる。
 では、ハンバーガーショップではどのように行動すれば、ハンバーガーを食べれるのか?それは、もちろん、列に並んで、注文して、代金を支払い、ハンバーガーができるのを待って、呼ばれたら取りに行く…という順番を経ればハンバーガーを手に入れられることを僕らは知っている。この時に僕らは、これらの手順に関する「ハンバーガーショップのスクリプト」を利用しているのだ。

文で書くとこんなにも長ったらしいことを僕らは一瞬のうちに、無意識に行なっているのだ。
僕らの認識と行動は「スキーマ」と「スクリプト」を基にして行われているといっても過言ではない。「スキーマ」と「スクリプト」通りに物事が進むから、人はスムーズに行動できるのだ。

では、もし、ハンバーガーショップの店員がブックオフ並みの声量で挨拶してきたらどうだろう?メニューが足元にあると急に言われたらどうだろう?

おそらくこのようなことが現実で起これば、困惑してしまうだろう。なぜなら、これは「ハンバーガーショップのスキーマとスクリプト」に反する「エラー」だからだ。正確には、「エラー」を処理できないから困惑してしまうのだ。

しかし、これが「コント」ならどうだろうか?すると、それらの「エラー」に「ツッコミ」が入り笑ってしまう人もいるのではないだろうか?

というわけで、笑いの話に戻る。笑うための条件をここでは考える。

まず必要なのは、①「笑ってもいいというスキーマ」があること、もしくは、別のスキーマが優勢でないことである。

 例えば、真剣な会議の場で笑ってしまうのは、「会議」というスキーマに反するため、あまり起こりにくいだろう。また、「会議」では、話し合いの内容などに関するスキーマの方が優勢であり、笑うことに関するスキーマは起動しにくい。他にも、生活上で重大な問題を抱えている時は、そちらのスキーマの方が優勢になり、笑いにくいだろう。もちろん、これらのスキーマは変わり得るものであるため、スキーマが切り替わった瞬間に笑いが起こる可能性がある。

 お笑いの場合は、これが「コント」や「漫才」であることが明白であったりするので、笑うことが可能なスキーマが準備されている。会議のコントなら、エラーがあっても笑えるのだ。
(だからこそ、コントの前に「コント、○○」と言ったりする。)

次に②「その状況に関するスキーマ、スクリプト」があること

 先ほどの会議の例ならば、そもそも「会議」とは何か?どのように進むのか?という参照すべき、基本的な枠組みとシナリオを持っているはずだ。そうでなければ、「ボケ(逸脱)」が生じない。この②が①と重なることで初めて、笑える状況が生み出されるのだ。

 ちなみに、しばしば「シュール」と言われるものは、この②が見る者の間であまり共有されていない状況であると考えられる。(そのコントのみでの状況など…)このスキーマとスクリプトをその場で形成できるかどうかで、その状況を笑えるかどうかが左右されてしまうのだ。
(だからこそ、漫才やコントはわかりやすいシチュエーションをはじめに提示することが多いのだ)

次の条件は③「スキーマとスクリプトからの逸脱(エラー)」である。

端的に述べると、これは「ボケ」に相当する自分の思い描いていたもの(スキーマ、スクリプト)から逸脱すること。これが笑いにとって重要なファーストステップである。桂枝雀の「緊張と緩和」理論の「緊張」に当たるといってもいいだろう。

スキーマとスクリプトの逸脱がボケということがわかりやすいのはAマッソのこのネタだろう。ここでは、欲しいものというスキーマから多重人格という別の話題への逸脱によってボケを演出している。

ただし、これがあまりにも逸脱しすぎる、または、別のスキーマを想起させてしまう場合は笑いに繋がりにくい。コントであっても差別的な表現は笑いに繋がりにくいし、全く理解ができないもの(=処理できないもの)はどのスクリプトやスキーマから逸脱しているのかがよくわからなくなるのだ。

そして、最後の条件は④「エラーの存在を明示し、処理を可能にすること」である。

 こちらは、「ツッコミ」に相当する。「ツッコミ」は「ボケ」が「エラー」であることを示すとともに、それを処理する手助けをする。「ツッコミ」を入れることで、「ボケ」は「ボケ」とわかり、それが「どのスキーマとスクリプトから逸脱しているのか?」「どう処理するのか?」を示すのだ。(「何でやねん!」という言葉はよくよく考えれば「スクリプトから逸脱している!」という意味である)これは、先ほどの「緊張と緩和」で言えば、「緩和」に当たる。そして、「ボケ(=エラー)」が「ツッコまれる(=処理)」された時に、その報酬として私たちは笑うのだ。

 笑いが「ツッコミ」の後に生じるのは、このプロセスがあるためである。一方で、「ボケ」だけで笑ってしまう場合があるという反論もあるだろう。しかし、その場合は見ている側が「ツッコミ」を入れている場合がほとんどだ。(それが何のスキーマ・スクリプトから「逸脱(ボケ)」しているのかが分かるということ)
 また、バラエティなどでワイプがあるのは、「どのスキーマ、スクリプトでその映像を見たらいいのか」、「どう突っ込むべきなのか」ということについての格好のガイドとなっているのだ。

この、「ボケ」をエラーとして処理する例でわかりやすいのは東京ホテイソンのネタだろう。東京ホテイソンのネタでは、ツッコミを入れることで後からそれがボケであることを明示するのだ。(しかも後述するように、ツッコミを入れることでツッコミ自体がツッコミとボケの生産という二つの機能を担う)

さて、整理。「笑い」の発生条件は以下の4つであると仮説を立てた。
①「笑ってもいいというスキーマ」があること
②「その状況に関するスキーマ、スクリプト」があること
③「スキーマとスクリプトからの逸脱(エラー)」(=ボケ)
④「エラーの存在を明示し、処理を可能にすること」(=ツッコミ)

 ここであることに気づく。「ツッコミ」は「ボケ」を生み出すことができるのだ。「ツッコミ」には、それが「ボケ」であるということを示す機能がある。
 近年、主流になりつつある「例えツッコミ」は何でもないものを別のものに例えることで、それを「ボケ(逸脱)」に昇華させた上で「ツッコむ」という二重の機能を有している。つまり、「ツッコミ」は「ボケ(=エラー)」の生産と「ツッコミ(=エラー処理)」という二重の性格を有する場合もあるのだ。

 その一方で、「ボケ」はというと「スキーマ・スクリプト」の拡大・変更という意味があるだろう。「ボケ」の本質は「逸脱」であるため、それを処理するためには、自分の持っていたスキーマとスクリプトを変更する必要がある。処理が成功した場合には、その報酬として「笑い」が得られる。また、「ボケ」が、スキーマやスクリプトの範囲内なら、それは予想のパターンの一つでしかなく笑いが起こりにくくなるのだ。

(余談だが、芸人に優れたシナリオライターが多いのは、芸人はスキーマ、スクリプトに関する明確な知識とその適切な外し方を熟知しているためだと考えられる。志村けん曰く「お笑いってのは非常識な事を言って人を笑わせるんだけどその為には常識人でないと常識と非常識の境界線がわからない、コメディアンは常識人である事が大事」とのこと。ここでいう「常識」とは「広く共有されているスキーマやスクリプト」のことを指すのでは?)

 少し長くなりすぎたので一度ここで、終わり。次の投稿は、この仮説をもとに、近年の笑いの動向や社会について考えていきたい。(オチなし!)

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