第16段 神楽こそ。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

神楽、とは少し異なるが先日歌舞伎を観に行く機会に恵まれた。演目はかの有名な『連獅子』。たまたまチケットが安く手に入り、母と一緒に見に行ってきた。歌舞伎座は東銀座にある。伯母が大の歌舞伎好きだったので昔はよく正月に家族でこの場所へと赴いたものだ。手まり寿司弁当を買い、さらにはお土産売り場を物色し、適度にイヤホンガイドを聞きつつ時にはウトウトしながらのんべんだらりと鑑賞するのが我が家お決まりのパターンだった。コロナ禍になってからは随分と様子が様変わりしているようで、座席も飛び飛びになっており、賑わっていた地下のお土産売り場も縮小し、演目自体も三部制に分かれていた。一つ一つの演目が短いので、ある意味では逆に鑑賞しやすくなったと言ってもいい。それでもやはりどこか物淋しい佇まいの歌舞伎座は、どことなく新鮮な表情を見せてくれたように思う。入り口に足を踏み入れた時は赤い絨毯だからだろうか、どこか聖堂を思わせるような独特の匂いと荘厳さが垣間見えた。閑話休題、私はこの『連獅子』と言う演目に非常に親近感のようなものを抱いており、なんとしてでも死ぬまでに見たい作品としてずっと恋慕にも似た情を抱いてきた。『連獅子』は河竹黙阿弥・作、振り付けはあまりの稽古の厳しさにより『雷師匠』として知られ恐れられた初代 花柳 壽輔の作品である。実は彼に関してはかの有名な勝海舟も大絶賛したと言われている。『勧進帳』の弁慶や『暫』の鎌倉権五郎景政と並んで、歌舞伎といえばと言うイメージで知られている演目でもある。なぜ私がこの作品に親近感を抱いているのかと言うと、この連獅子の最後の振り付けがまさにベリーダンスの湾岸地方などの踊りにそっくりだからである。そう、前にもnoteには書いたと思うがいわゆるペルシャの踊りである、イラキーやハリージ、そして何と言ってもエジプトの魔除けの踊りザーである。わかりやすくいえば頭をグルグル振り回しトランスに入っていき、そして最後は燃え尽きて倒れこむようなヘドバンダンスである。連獅子では親子の獅子が最後に牡丹の花と戯れて遊び、そして髪の毛を振り回して一緒に踊る。この毛が親が白で子が赤なのだが、着物の色とも相まって実に美しく見事なのである。そして何と言ってもやはり髪の毛が長いので、何度見ても中東の民族舞踊を思わせる節があり、私は見ていて途轍もない高揚感に見舞われる。目の当たりにした瞬間は実際に涙腺が潤んでいた。細かく分析していけばどちらが先に発祥したのかは定かではないが、海を渡ってこの踊りが来たのか、それとも人間にはそもそもこのように頭を振りながらに何かに没頭していくと言うようなDNAが刻み込まれているのか、考えれば考えるほど深みにはまっていく恐ろしさがある。人間とはなんと美しいものなのだろう。もちろん獅子の姿を見て着想を得た、と言うことも考えられるのだがそれにしても人間が、自分以外の何者かになろうとする思いや行いに私は、何者にも代えがたい『浪漫』のようなものを感じる。そう、浪漫なのだ。生きることはやはり浪漫なのだ。人間は動物に比べれば、特に獅子などに比べれば格段に弱い生き物である。力や生命力で言ったら勝てる気がしないと言うのは事実だと推測する。しかしながら人間には知性がある。知性を使って、どのようにして生きていくかと言うことを夢想したり、構想したり、そしてそれを実際に行動に移していくことは可能だ。そう考えると、例えば獅子の強さにあやかってそれそのものになりきり舞い踊る。そしてそれによって己の強さを奮い立たせ、そしてそれを他人とも分かち合うと言うことは一つの進化の過程のようにも思われるところがある。生物の定義は『死ぬこと』と同時に『進化すること』にあるならなおさらだ。兎にも角にも、私たち人間は知らず知らずのうちに、この浪漫の中に生き、たゆたい、そして出会っていく。最近人生が新しいところへシフトチェンジしていっているところなのだが、僕の師匠がよく教えてくれる言葉がある。『探すんじゃない、出会うんだ。』これは大好きな岡本太郎の言葉なのだが、僕はここのところこの言葉を繰り返し自分に言い聞かせている。それはおまじないにも似た何かなのかもしれないが、口にすると不思議と力がみなぎってくるのでかなり気に入っている。そう、僕たちは出会うために生きている。出会うことによって、己の存在を知り、深く深く旅をしていくことが生きることの本当の意味なのだと感じている。僕は昔から、人見知りだ。内気で、引っ込み思案で、気づけば出不精になっていることも多い。家の中で絵を描いたり、本を読んだり、自然の中で彼らと会話している方が好きな人間だった。人間のくせに人間が苦手で、人と話しても『誰も自分のいっていることがわからないのだ。』と思うことがたくさんあった。それでも何年か生きていくと、そんなことはただの幻想だったと思えるようになる。僕にとってそれは師匠や、仲間たちとの出会いのおかげだった。こんなにも人生を有意義に、そして奥深く感慨深く感じることができるのは、本当に幸せなことである。僕は一人じゃない。いつも、それを心に思っている。やはり人間は一人では幸せにはなれないのだ、と痛切に感じる。そしてそれは決して悲しいことではなく、むしろ希望の福音だと言ってもいい。在り来たりな言い方になってしまうかもしれないが、僕たちは、幸せになるために生まれてきたのだ。














僕にとっての連獅子のように、皆さんにとっても、良い出会いがありますように。そして機会があったら、ぜひ出会いましょう。



そんなことを、心から思います。










コギト・エルゴ・スム

風に吹かれる、虚ろな哲学者

MINAMI

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