見出し画像

「セブンティーン」⇨「きみが死んだあとで」

絶賛上映中「きみが死んだあとで」(代島治彦監督)👉映画に登場する14人のその後の物語をまとめた本『きみが死んだあとで』が晶文社より6月刊予定

映画宣伝担当者に話をきいてみた【「きみが死んだあとで」backstoryII】




語り手=大竹久美子(Tereza)さん
聞き手·写真撮影=朝山実

画像4

©️きみが死んだあとで製作委員会(▲山﨑博昭さんの高校時代の学生手帳、▼兄が保存する博昭さんの本棚)    

画像5

 ドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」(代島治彦監督)の宣伝担当の大竹さんに話をきいてみたくなったのは、試写会での雑談からだった。
 彼女が劇場で最初に観た映画は高校時代の「地獄の黙示録」で、別の映画を観たいという友人たちと待ち合わせ場所を決め、ひとりで映画館に入った。劇場を出たときには友達のことをすっかり忘れ、ひとりで帰宅したという。面白いひとだなぁ。代島監督から「今度の映画の配給・宣伝は学生運動とかに詳しくない人にしたい」と聞いていた。若い人に劇場に足を運んでもらいたいという思いがつよかったからだ。
 大竹さんは「Tereza(テレザ)」という屋号で、フリーの宣伝プロデューサーをしている。「きみが死んだあとで」を観て「青春映画だと思った」と感想を口にしたのを代島監督はよろこんだ。200分のこの作品はベトナム反戦運動に加わった若者たちを訪ね、50年を経て話を聞いていくドキュメンタリーだ。青春ものに必須の恋物語要素は皆無だけど、70代になった元若者たちが「政治の季節」を語る様子に「青春」を感じたというのが新鮮に思え、詳しく話を聞いてみたくなった。インタビューは共通の鉄道沿線というのもあり、わたしが暮らす町のドトールで行った。
映画『きみが死んだあとで』オフィシャルサイト http://kimiga-sinda-atode.com/


🌙まず、大竹さんは何世代になるんですか?

「63年生まれですから、ええ、昭和じゃないですよ。世代でいうと「バブル世代」ですね。お台場とかジュリアナとかのディスコが盛り上がっていたのは大学を卒業して、すぐくらい。世の中的には「就職難」ではなかったんですが、個人的には就職難でした。
 バブルの名残りも、おこぼれ程度には体験しました。出版社の人と飲みに行った帰り「これ、はい」とタクシーチケットを渡されるとか。ただ、大手ではない映画系の仕事をしてきたので、そういうのは数えるくらい。広告業界に入った友達が、ボーナスが8ヶ月というのを聞いて、びっくりしたのは覚えています」

    簡単に映画「きみが死んだあとで」について説明しておくと、1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナムを訪問阻止で結集した全学連と機動隊が衝突。京大1年生の山﨑博昭さんが亡くなる。
 山﨑博昭とは?
 大阪の大手前高校の学友や兄ら14人の語りから、ベトナム反戦に燃えた時代背景と「山﨑博昭」の人物像を立体化していくというのが第一部。3時間20分となる後半二部では、山﨑さんの死を契機に高揚した学生運動が大衆の支持を失っていく。セクトの活動家となったが、やめるに至った心模様を振り返るもの。内ゲバに深く関わったもの。メディアに登場することのなかった彼らの肉声に耳を傾けるのは、全共闘運動から遅れた「しらけ世代」の監督だ。あの時代は何だったのか、なぜ運動は潰えていったのかを探る証言ドキュメンタリーの構成になっている。

画像3

©️きみが死んだあとで製作委員会(北井一夫撮影『過激派の時代』より)
「きみが死んだあとで」予告編https://youtu.be/8TI65bWSlfk


🌙「きみが死んだあとで」の宣伝を担当されることになった経緯をうかがっていいですか?

「配給をされているノンデライコの大澤さんに声をかけてもらったんですね。「大竹さんが好きそうな映画だから」って。わたしが以前Facebookで、国の政策のここがなっていないとか書いたりしていたのを覚えてたみたいで。 
   わたしは、世の中というのはよくなっていくものだと子供の頃に思っていたんですよ。戦争があって、原爆を落とされた、こんな悲劇をくり返してはならないと学校で勉強し、こういうことはなくなっていくものだと信じていたんです。世界というものはそういうものであると。
 ところが、どんどん悪くなっていくじゃないですか。なんでだろう? ずっと疑問で」


 大竹さんが、独立して共同配給(配給:テレザとサニー)した映画を教えてもらった。「シリア・モナムール」(オサーマ・モハンメド監督)というシリア内戦を描いたドキュメンタリーだった。
 映画『シリア・モナムール』予告編 https://youtu.be/kPdb3ljW1C8 @YouTubeより


「ちょっと子供の頃の話になるんですけど、いいですか。小学校の4年か5年のときに『アンネの日記』の読書感想文を書いて、福島県の賞をもらったことがあったんです。自分と同じくらいの女の子の尊厳が踏みにじられていく。そのことにものすごく腹が立って。その頃から、世界は過ちを振り返り、よくなるものだと信じていたんですね。ところが一向にそうはならない。2年くらい前までは、わたし、世の中への怒りを発信していたんです。だけど、その気力が失われ、いまはほとんどやっていないんですけど。大澤さんはそれを覚えていたみたいで「大竹さんなら、何か反応するだろう」と。この映画の中に込められた怒りを共有できるのではないのかというので、話がわたしに来たようです。
 大澤さんは、代島監督より下の世代で、映画に出てくる団塊世代に対して複雑な思いもあるのかもしれないですけど。配給を引き受けるにあたって宣伝には、代島さんとはちがう感覚をもった人を入れたほうがいいだろうと考えたみたいなんですね。
 ただ、まったくちがう感覚かというとそうでもなくて、じつは代島さんが映画の冒頭で言う「カッコイイお兄さんお姉さん」のように、わたしにも自分はなんでここに参加できなかったのかという思いがあるんです。高野悦子さんの『二十歳の原点』とかも読んでいましたから。高校は福島県の郡山だったんですけど、ちかくに開成山公園というのがあって、昔そこでウッドストックの日本版のようなイベントがあって、うちの高校からも何人か行ったそうなんです。「そいつらを全員、停学にしてやった」と自慢する教師に腹が立って、わたし、もう食ってかかったことがあったんですよ。だけど、クラスの誰ひとり反応してくれる人がいなかったんですよね」

🌙ひとりで教師に食ってかかるというの、すごいなあ。この映画につながるものがありそうですね。ああ、そうそう。試写会のところで話されていた、はじめて劇場で観た映画がコッポラの「地獄の黙示録」だったというの、詳しく聞いていいですか?

「あれは高校2年ですね。その前に観たというと、小学校、中学校の体育館で体育座りしながら観たディズニー映画みたいなの。もっと小さい頃は、夏に怪談ものをやっていた映画館が1軒だけあったんですが。それで「地獄の黙示録」を観てもうびっくりしたんです。
 高校は列車に乗って1時間半くらい。朝6時15分の列車しかなくて、次は10時という。帰りの最終は6時だし。あの日は郡山の高校の友達4人と誘い合せて街の映画館に行くんですよね。みんなは「クレイマー・クレイマー」を観たいと言い、わたしひとりが「地獄の黙示録」を選んで、終わったらここに集合と決めたのに、もう映画の余韻がすご過ぎて、3人のことはすっかり忘れ、ひとりで列車に乗って帰ってしまった。そうそう。レコード屋さんで、ドアーズのLPを探して買ったんですよ」

画像5



「育ったのは福島県の、海側の浜通りと中通りの狭間の山奥といっていいくらいの町。市じゃなくて郡、それに大字がつくんです。土地も痩せているから農業にも向いてない、砕石が主な産業というところ。
 1軒だけ小さな本屋さんがあって、小さい頃からずっと本を読んでいたんですよね。『赤毛のアン』とか『あしながおじさん』とか。本屋の隅っこの暗闇みたいなところでよく座り読みしていたんです。お小遣いが月に300円だったので、貯めて買う。神社から町が一望できるんですが、そこでよく本を読んでいたのが記憶にあります。
 記憶にあるといえば、防空壕。横穴式のが残っていたんです。そこに自分の好きなお人形とか持って学校帰りに行ってました。ひとりで。ああ、だからといって、友達がいないというわけでもなかったんですけどね。

 それで「地獄の黙示録」の次に観たのが高校3年のとき、大島渚監督の「愛のコリーダ」と「愛の亡霊」の2本立て。そっちは、高校の担任の先生が「自分は大島渚を尊敬している」という話をしていたんです。たまたま限定3日間で特集上映をやっているというのを知って、「これは見ないといけない」と学校を抜け出して観にいったら、次の日「おまえは3日間停学」だって。先生があんなに尊敬していると言うから行ったのにと訴えたんですけど、「それとこれは別だ」と怒られました。まあ女子高で、成績も400人中の350番くらいでしたから。結局、高校時代に観た映画はその3本。だから将来、映画でどうとか考える以前ですよね。

 活字の方は、その頃は大江健三郎を読んだりしていました。「セブンティーン」という小説にインスパイアされて短編小説を自分で書いたりしたんですよ。友達に読んでもらったら「まったく意味わかんない」と言われましたけど。ええっと、それは学生運動の話で「月のない夜のシュプレヒコール」というタイトルをつけてました。学生運動に挫折した二人の若者が国会議事堂に火炎瓶を投げつけるという、そこだけは覚えているけど、あとはもうどんなだったか。
 当時、高野悦子さんの『二十歳の原点』とか読んで、自分とそんなに年のかわらない女の子が政治的なことに命を賭けるようなことをしていた。それなのに「わたしは何をしているんだろう?」と焦ったんですよね。もうすっかり忘れていたことですけど、インタビューされるというので思いだしたんです。なぜか追いつかないと、と思っていたのを。
 それで大学に入ったのは81年かな。東京の大学にいったらデモとかに参加したいと思っていたんです。だけども、もう微塵もない。『なんとなく、クリスタル』みたいなことになっていて、あれぇ?って。

 大学は日芸(日大芸術学部)です。ゼミの岡本先生が「わたしたちにはデモする権利があり、それを失ってはいけない」と言っていたのをよく覚えているんですけど。素晴らしいと思ったのは、わたし一人だったという。そういう体験をしてきたので、話が長くなってしまいましたが、世代は下でも感覚的に代島監督とまったく違うというわけでもないんです」

🌙代島監督は1958年生まれで、学生運動の熱が冷め世の中に「シラケ」がまん延した時期に思春期を過ごしながら、全共闘的なものに憧れを抱いた「遅れてきた世代」。憧れはしたものの結局そうした運動には監督自身は一切かかわらずにきたそうですが、大竹さんは代島さんよりさらに下の世代になるわけですよね。大学に入られた80年代の初頭は、運動をしている人たちはコウノトリくらいの超少数派だから「あれ?」という空振り感はすごかったかもしれないですね。

「そうですね。結局、初めてわたしがデモに行くのはずっとあと、3・11のときの「原発止めろ」のときで。あのときは一人ではなく、知り合いと。「行かないと」と言ったら「行かないとね」と応えてくれた。もう亡くなった先輩ですけど。だから、この時代(「きみが死んだあとで」で描かれる60年代末)に対して「わからんでもない」という気持ちとともに、「あなたたちが作った社会が今こうなっているんだから」という不満と怒りもあるんですよ。
 あと、相変わらず「今の若い者はこういうものも知らずに」とか、「なんで声をあげないの」と上の世代の人たちが決まり文句のように口にしたりするのも嫌なんです。だから、この世代の人たちには、ちゃんと総括して死んでいってほしいという思いはあります。というように、この映画に関して話すとなると、いろんな複雑な思いがある。だから是非やりたいというのと、実際、映画を「青春映画」として観ちゃいましたから。それは、もしもあの時代に自分がいたら迷わずやっていたんだろうなぁという。でも、その一方で冷めた気持ちもあって」

画像6


「いま(残り試写が数回というタイミング)思ったほどには新聞やメディアの人からの反応が薄いんですよね。たとえば戦争体験者が高齢になってから話しはじめたように、当事者たちの証言を残していくことは非常に重要なことだと思うんですね。みんな70を超えて、ようやく語りはじめた。その一点においても重要な映画だと思うのに。反応が薄いのはどうしてなのか。もしかして宣伝の方向性が間違っていたんだろうかとずっと考えているところです」

🌙なかには学生運動の映画というので拒絶感のある人たちもいるだろうし。だけども、当時の激しい機動隊との衝突シーンの引用はごくわずかで、懐かしがって回顧するというのでもない。当事者たちがカメラの前で、あったことを、目にしたことを語る。沈黙してきた人たちのオーラル・ヒストリー(口述歴史)の映画。類似のものがないドキュメンタリーだけに宣伝の仕方は難しいかもしれないですよね。ところで、大竹さんはどうして映画の仕事に就くようになったんですか?

「わたしのことですか? 映画の仕事は、さっき言ったように特別に映画が好きで観ていたというのでもなく、目指していたわけでもないんです。日芸に入ったのも文芸学科で。授業の最初に、ダンボール1箱はある原稿用紙をドンと渡され「これを使って4年間過ごしなさい」と言われたのをよく覚えてます。
 もう学費がすごく高いんですよ。わたしたちは原稿用紙だけで、ぜんぶ映画学科の機材とかにまわってたんだろうなぁって。そもそも文芸学科を選んだのも、育ったのが文化といえば本しかない環境だったのもあってなんですけど。時代としては大学に入った頃にちょうど、糸井(重里)さんとか川崎徹さんとかが人気で、広告カルチャーが花開いていたんですよね。影響を受けたのは、天野(祐吉)さんの「広告批評」でした。そこがやっていた学校があって、その一期生になるんです。糸井さんや仲畑(貴志)さんたち、コピーライティングの錚々たるが講師でやって来て「うわあ、東京すごい」って驚いてました」

 就活の際、大竹さんは広告の仕事を志望したが願いかなわず、企業PRの会社に就職した。秋葉原にあった照明に力を入れていた家電量販店の担当となり、「ブルータス」や建築系雑誌に記事として取り上げられるよう促すのが仕事。しかし、ここは1年ほどで退職。「なんかちがうなあ」感が募ったという。その後新聞の求人広告欄に載った「映画宣伝」の文字が目にとまり応募したのが現在につながっている。

「「アマデウス」「コーラスライン」という映画を扱ってきた会社だったんですけど。当時、宣伝は映画会社の中にあるのがほとんどで、外注するというのはほとんどなくて。唯一といっていい宣伝会社だったんですね。ちょうどミニシアターが出てきた時期です。社内にはわたしと同じ20代のひとが6、7人。でも、みんな「ロボコップ」のようなハリウッド系の大作をやりたくて、ミニシアター系のものは誰もやりたいと言わないから、わたしが担当するということが多かったんですね。
 どうして映画宣伝の仕事をしたいと思ったのか?  それほど強烈にやりたいというわけではなくて。大学時代には毎日のように観ましたけど。江古田文化という名画座が大学の側にあって、3本500円。大学まで徒歩7、8分というアパートに住んでいて、大学を通り過ぎては映画館に通っていたんです。田舎から出てきたから大学になじめなくて。友達はそこそこ出来はしたんですが、最後まで居場所がない感じで、学園祭にも行かず。だからよく4年で卒業できたと思います。
 ミニシアター系というと、はじめてゴダールを観に行ったのが、六本木にオープンしたシネ・ヴィヴァン。せっかく東京に出てきたんだからというので「パッション」を観たんですけど、もう訳がわからなくて、打ちのめされましたねぇ」

🌙そういう話を聞くとホッとしますね。映画の宣伝の仕事って人気の職種だと思うんですけど、具体的にはどんなことをするんですか?

「最初に入った会社でやっていたのは、メディアとのやりとりが中心でした。とくに新人の間はメディアの人と交渉して記事にしてもらう。経験を積むと、洋画作品だとタイトルを考えたり、キャッチコピーを考えたりする。チラシのビジュアルはデザイナーに、パンフレットの作成は編集者を立てる。そうした全体のコンセプトを決めたり、パンフの原稿を作ったりすることですかね。
 会社によっては、原稿は社外のライターさんに頼むこともあるんですが。そこでは、天野さんのところで学んだことが役立ちました。そういう作業と平行してメディアとの交渉もするので、大学のときになんとなく希望していたことは一応やれているのかなぁ。その会社に5年勤め、東京国際映画祭のスタッフで3年。そのあとユーロスペースに30ちょいくらいで入ったんです」

🌙ユーロスペースの劇場が渋谷区桜丘町にあった頃ですか?

「そうです。当時のユーロスペースは配給もやっていたんですよ。わたしの主な仕事は宣伝で、いまの場所に移って1年くらいしてやめたから、13年か14年いたのかな。その後はフリーになって14年目になります。
 ユーロでは、配給部門は支配人を兼任してたスタッフとわたしだけで、だんだんそのために映画を買い付けないといけないんだなぁという状況が申し訳なく思えてきて。興行的にも厳しくなっていたこともあったのと、年齢的に43歳、新しいことをやるなら今かというのもあってフリーに」

🌙当時、フリーランスになるのに迷いはなかった?

「今だったら無謀だったと思うんですけど、まだまだ時代もよかったですから。新しく大学で映画の宣伝について教える仕事をいただいたりしたのもあって。それが10年ちょっと続き、この映画を日芸の学生たちに観てもらって代島さんと対話してもらう。それをプロモーション的にYouTubeにあげているんですが、そういうアレンジがやれたのも学校のつながりがあってなんですけど。
 不安はね、なくはないですけど。バブルの頃を知っているからか、食いっぱぐれるという危機感がないのがベースにあって、まあ、ひとり分くらい何とかなるだろうと」

 宣伝の仕事は記事として取り上げられてこそ。そのための資料作りとともに声掛けが基本。ということは「人づきあい」能力が求められもするのだろう。いまでは衰退したが、大竹さんが仕事を始めたころは「接待」は当たり前、酒席で男性の隣に座ってのお酌やらセクハラ、パワハラは日常茶飯だったという。「それが嫌でやめていく人を見てきました。今はさすがにそういうのは影を潜めてきたと思いますけど」。そうした現場の話にメンタルがタフじゃないと続かなそうだと言うと、「わたしも苦手です。よくやってきたなぁって思います」とマスク越しに目許がやわらいだ。

「作品を案内する際、いまは何でもかんでもこれは面白いとは言わないようにしているんですね。自分が感じたマイナスとプラスを正直にあげて、こういう映画なんですけど、と案内するようにしています。いまだから言えるんですけど、会社員のときは正直「うーん」というのも中にはありました。
 ただ、コロナの影響もあって、いまは仕事が激減してしまっているんですよね。全体の予算が削減されたからでしょうけど、以前だとフリーを2人雇っていたものだと1人にしてギャラも抑えるというふうになってきています。
 なかにはどうやって宣伝していいのかわからないという映画のオファーもあります。以前、配給会社に正直に言ったら即「残念ながら」で終わちゃいました。わたしとしては、すごく葛藤して、たとえばこういうプランだったらとか、さんざん考えて臨んだけど「乗らないようでしたら、けっこうです」とあっさり。あれ、もうちょっと粘って話してもらったらという期待もあったんですけどねぇ。
 だからアサヤマさんがやられたnoteでの東海テレビのインタビュー。あれはすごく面白かったです。取り上げた映画のどこにがっかりしたのか、プロデューサーに対面でやりとりしていく。よくこれを許容したなあって。プロデューサーもそうですが、配給会社をカッコイイと思いました。
 大手の配給会社だと、ネガティブなことを書いた人は試写状リストから外すとかいうのを聞いたことがありますから。原稿チェックで、こういうことは書かないでくださいと言うとかね。ダメなところはダメと言うのが評論でしょうに、そうでなくて何が面白いんだろうと思いますよね。
 一方で、いまはこの業界は「やりがい搾取」の一面もあって。会社でやっている場合も規模は1人から5人くらい。アップリンクの浅井さんのことが問題になっていましたが、あれに似たパワハラはよく聞きます。夜中まで会議をして、給料は安い。小さい会社で社長がワンマンだと、下で働いている人たちは逃れる場所もないですから。そういうのもあって、若い人はやめていっちゃうんですよね。憧れも高いけど、離職率も高い。そうした内情が知られるようになってきて、最近は人気がなくなってきつつあるみたいです。ユーロスペースはそのへん自由奔放にやらせてもらっていたので、すごく居心地はよかったからいまでも感謝していますけど。外に出て、あんな会社はそうそうないんだとわかりました」


    わたしはいま、この映画に登場する14人が語った、映画に収まりきらなかった「その後」の人生を編んだオーラルヒストリー(口述歴史)の本を作っている。無理を言って代島監督にも、彼が映画監督となるまでの個人史を書き下ろしてもらった。400頁をこえる分厚さになってしまった。各人の話に接していると、大竹さんが言ように確かに「青春」を感じた。なかでも面白いのは、監督が 70代になった元若者一人ひとりに「あなたは自分を老人だと思うか?」と訊く。不意打ち気味な質問に、一瞬の間が生じる。問われ、みんなキョトンとしたに違いない。監督と各人との雑談めいたやりとりを追ううち、行間から一人芝居のように現場や表情がみえてくる。久々の編集業だが、読めば映画を観たくなる本だと自負している。スタッズ・ターケルの『仕事!』の晶文社から6月末刊行予定です。

画像3

▲渋谷ユーロスペースの公開初日。舞台挨拶前を控えたロビーで。左から代島監督、大竹さん、カメラマンの加藤さん。
以下参考までに、
◆大竹さんの話に出てくる代島監督と日大生との「きみが死んだあとで」をめぐる座談会👉https://youtu.be/nwdXYcsfD5E 

◆noteの東海テレビの阿武野プロデューサーのインタビュー👉
https://note.com/monomono117/n/n6e7e477e2d0a





最後までお読みいただき、ありがとうございます。 爪楊枝をくわえ大竹まことのラジオを聴いている自営ライターです🐧 投げ銭、ご褒美の本代にあてさせていただきます。