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食材を醸す技⑤ 伝統食品の展開

明治時代、伝統食品分野でも動きがみられた。それまで醸造品は江戸などを中心に、ソウルフードは愛知周辺に供給されていたが、物流インフラの整備が進み、ともに全国各地へと市場が拡大していった。 

まずは酒造業。江戸末期、中国酒(愛知の酒)は灘酒(兵庫県)と肩をならべる生産量を誇っていたが、明治8年に酒類税則が制定されたことで低迷期を迎える。そんな中、県下最大の酒造地帯となっていた知多では状況打開のため、当時珍しかった醸造試験所が同16年、亀崎(半田市)に設けられ、科学的な醸造法の研究が始まった。こうしたこともあって、勘と経験による家内工業生産から、専門知識と最新設備による近代的な工場生産へと転換する蔵元が出現、中国酒の品質は総じて向上し、同30年代頃には灘酒とならぶ生産量まで回復した。

知多の酒蔵による清酒(webサイト Aichi Now)

また、酒造業が低迷したこと、東アジアから大豆が大量輸入されるようになったことから、明治10年代より知多を中心にみそ・しょうゆ業が活況を呈していく。同25年には、半田の小栗富次郎が関東の醸造法を導入して、愛知初の濃口しょうゆの生産を開始している。知多を例にとれば、盛田(寛文5年《江戸前期》、小鈴谷《常滑市》で創業)、中定商店(明治12年、長尾《武豊町》で創業)、泉万醸造(大正10年、里中《武豊町》で吉田醸造所として創業)などが、当時の技を今に伝える代表的な蔵元である。

写真は昭和時代の岡崎八丁の味噌蔵を再現したもの(カクキュー八丁味噌・史料館)

一方のソウルフードも大きな動きがあった。
西尾の紅樹院住職・足立順道らは京都宇治から取り寄せた茶種を使い、明治12年、茶の生産に着手する。その後多くの農民が茶業に参入して食品産業・西尾茶のあゆみが始まった。ほかの産地との差別化のため、明治末期に高級茶(玉露や碾茶)の生産が志向され、大正時代になると、実業家・杉田鶴吉らによって碾茶生産が本格化する。戦後は食品加工用原料としての抹茶の生産に活路が見いだされ、近年では抹茶洋菓子というジャンルも開拓された。
こうした一連の動きに関わってきた企業の一つが抹茶メーカー・あいや(本社は西尾市)である。創業者の杉田愛次郎は茶園開墾に加わった後、明治21年に茶と藍生産を行う杉田商店を創業した。その後同店は改組(大正11年、あいや茶店。昭和25年、あいや)により経営体質を強化しつつ、付加価値の高い製品づくりに注力してきた。

西尾の抹茶工場(webサイト西尾市観光協会)

また、現在のヤマサちくわにより、明治中期頃、両端が白く真ん中が茶色い豊橋ちくわが製品化された(それまでは全体が黒ずんだちくわだった)。同社は昭和3年に、日本国有鉄道(現JR)豊橋駅で立ち売りを開始し、以後豊橋ちくわの名が全国に知れわたるようになる。

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