からくりとすり合わせの技⑤ 戦後復興(必要なものは何でも)
アジア太平洋戦争(昭和16~20年)の末期、愛知の機械各社はアメリカ軍による空襲の標的となって壊滅的な被害を被った。しかし終戦からほどなくして、焼け残った工作機械や材料をかき集め、「必要なものはなんでも」というスタンスのもと、ものづくりを再開する。その後、朝鮮戦争(同25~28年)勃発にともなうガチャマン景気という追い風が吹いたことで、回復は決定的なものとなり、多岐にわたる機械製品がつくられた。
たとえば、連合国軍総司令部(GHQ)による自動車生産の制限(統制)がかかる中、トヨタ自動車工業刈谷南工場(後の日本電装。現デンソー)は昭和20年末から、日常生活には欠かせない鍋や釜にはじまり、漁船用エンジン電装品、小型モーター、ラジオ、電熱器(電気ストーブ、電気コンロ、電気アイロン)などを生産した。
また、「復興にともなう衣料の需要増加」「繊維分野が輸出産業として復活」「軍需産業に向けてきた技の平和的な利用」といった背景のもと、日本ミシン製造(現ブラザー工業)や愛知工業(現アイシン)は、家庭用をはじめとする各種ミシンを生産した。
ほかにも技の平和的な利用が進んでいる。連合国軍総司令部(GHQ)の財閥解体・過度経済力集中排除法の適用により、昭和25年に発足した中日本重工業(三菱重工業より分社。現三菱重工業)は、冷凍機や農業機械などを生産した。また、戦時中に愛知時計製造から分社した愛知航空機(現愛知機械工業)も、培った経験を発動機(農業用、漁業用)や三輪自動車などの生産に活用している。
さらには、復興が進むにつれて物流(移動)手段の確保が重要課題となり、オートバイ生産が盛んになった。昭和27年には交通法規改正、石油製品の割り当て廃止があり、参入メーカーが一気に増加、最盛期には県下で80社ほどのオートバイメーカーが活動していたという。その大半は月産数台の零細メーカーだったが、中には全国的な知名度を得るにいたった大規模メーカーも存在した(瑞穂自動車製作所、トヨモータース、新三菱重工業《旧中日本重工業。現三菱重工業》など)。
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