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食材を醸す技① 伝統食品の誕生 その1(酒造)

酷暑厳冬で多湿の愛知では古くから食材を醸す技が培われてきた。文献上の初見は天平年間(奈良時代)のこと。奈良東大寺の『正倉院文書尾張国正税帳』に、葉栗郡でつくられた醤(豆みそのルーツ)や酒(濁酒と思われる)、滓(酒かすと思われる)が租税(調)として朝廷に献上されたと記されている。

また、清酒づくりも早くから行われていた。『日本文徳天皇実録』によると、斉衡3年(平安初期)、朝廷から派遣された酒造師によって、伊勢神宮(三重県)に供えるお神酒が尾張一宮の酒見神社でつくられたという(愛知の清酒づくりに関する最古の記録)。その後愛知の酒づくりがどのように発展していったのか、記録がほとんどないため、詳細は不明である。しかし残されたわずかな記録、たとえば、室町後期の津島には酒屋が相当あったこと(『山科言継日記』)、清洲の有力酒屋が慶長17年(江戸初期)の清洲越しにより名古屋に移住したこと(『寛延旧家集』。寛延3年《江戸中期》)などからすれば、有力な港町や城下町を中心に酒づくりが盛んだったことは確かであろう。

その後江戸時代になると、酒好きで知られた第2代尾張藩主・徳川光友は奈良の杜氏を招いて酒づくりを奨励する。こうして知多半島(尾張領内)から西三河沿岸部(尾張領外)にかけた広域で酒造業が発展し、元禄年間(江戸前期)には飲酒習慣が広まっていた大市場・江戸に送られるようになった。江戸と大坂の中間地でつくられたことから「中国酒」、江戸にくだることから「下り酒」、地名をとって「尾張酒、三河酒」、アルコール度数が高いことから「鬼ころし」などとさまざまな愛称で呼ばれ、江戸町民に愛飲された。江戸後期には、新田開発の進展などにともなって酒造量が増加し、上方の灘酒(兵庫県)に次ぐ規模となる。 

知多半田の酒蔵 中埜酒造

草創期の蔵元には、大野(知多市、常滑市)の木下仁右衛門、大浜(碧南市)の石川家らがいた。また、江戸時代の創業で今も活動を続ける蔵元には、盛田(寛文5年《江戸前期》、小鈴谷《常滑市》で盛田久左衛門が創業)、中埜酒造(弘化元年《江戸後期》、半田で小栗富治郎が創業)、金虎酒造(同2年、山田《名古屋市》で大坂屋善兵衛が創業)、澤田酒造(嘉永元年《江戸後期》、古場《常滑市》で澤田儀平冶が創業)、清洲桜酒造(同6年、清洲で柴山家が創業)などがある。

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