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食材を醸す技⑥ 洋食の本格的な普及

日中戦争とアジア・太平洋戦争が終結した昭和20年、海外からの軍人や民間人の引き揚げにともなう人口増加、米の不作などが重なって、国内の食糧不足が深刻化する。このため翌年より、連合国軍総司令部(GHQ)を通じてパン用小麦粉や各種缶詰の提供を受けた。これがきっかけとなって、国内一般家庭への洋食の普及が急速に進み、愛知でも関連食品がいくつも展開された。

一つ目の事例はパン。大正11年に舟橋甚重が創業した名古屋の金城軒(現フジパングループ)は、昭和21年に配給パンの生産を開始、同25年には学校給食用パンにも参入した。同27年に新工場を建設して機械生産による近代化を図り、一般家庭向け製品の供給体制を強化した。また、敷島製パンもこの頃、配給パンの生産を行っている。同社は進駐軍向けのパンも手がけたが、アメリカ流のパン生地は牛乳やバターをふんだんに使っていたことから、当時課題だった栄養失調の改善に向けた製品開発につながった。

二つ目はインスタントカレー(カレーライス)。戦前、名古屋で輸入食品商社を経営していた星野益一郎は、国内でカレーライスの認知が進んでいることに着目し、粉末状のカレールウを考案した。そして終戦間もない昭和20年末、オリエンタル即席カレー製造(同28年にはオリエンタルに改組)を創業し、国産初のインスタントカレーの生産を開始する。宣伝カーを使った全国行脚のPR活動もあって大ヒット商品となり、やがてカレーライスは日本の国民食として定着した。
また、名古屋市内で喫茶店を営んでいた宗次徳二・直美夫妻は、昭和53年にカレーライスの専門店・カレーハウスCoCo壱番屋を創業。同社はソース、辛さ、量、トッピングが自由に選べるという新たなカレー文化を創造し、現在ではカレーチェーンの最大手として、国内のみならず海外にも事業展開している。

発売(昭和20年)以来のロングセラー商品 「オリエンタル即席カレー」

三つ目はコーンスターチ。日本食品化工(昭和23年設立。本社は東京都)は、半田の加富登麦酒の工場跡を譲り受けて半田工場とし、ここでコーンスターチの開発に着手した。翌年、初の国産化に成功し、その後半世紀にわたって同工場での生産が続けられた(平成6年、岡山県に工場移転)。また、日本コーンスターチ(慶応3年《江戸末期》、倉地嘉六が一色《西尾市》で始めた小麦でん粉類製造業がルーツ。本社は東京都)も、昭和30年よりその生産を開始。現在、国内大手3社のうちの一社として衣浦臨海工場(碧南市)で生産を行っている。

加富登麦酒の工場跡は、戦後、日本食品化工のコーンスターチ工場に(現半田赤レンガ建物)

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