見出し画像

ダルバート【2】 タカリー・ダルバートの増殖と拡大

インド食器屋「アジアハンター」の店主・小林真樹さんが、食器買い付けの旅や国内の専門店巡りで出会った美味しい料理、お店、そしてインドの食文化をご紹介します。


前項でも述べたように、ダルバートとは文字通り「ご飯と豆汁」を意味すると同時に単に「食事」をも意味する。ちなみにネパール語にはより狭義の食事を意味する「カナ」という言葉があり、カナとは何の具材で構成されるかと問われればダルとバートではあるのだが、だからといってわざわざ家でお母さんが「今日はダルバートを作ったわよ」ということはない。なぜなら毎日がある種のダルバートだからだ。それがいつの間にかネパール料理を象徴する、分かりやすいワンワードとして主にネパールを訪問する外国人に浸透しはじめ、その動向を機敏に察知したネパール人が自分たちの言葉を再解釈するかたちで改めて外国人向けレストランのメニュー内にアルファベットで記載するようになった。いわばダルバートという呼称は外部からの目線によってネパール人が再発見するようになった料理名ともいえる。よってネパールの食事を「カナ」とカナ表記してもいいのだが、ここでは浸透度で優るダルバートで統一したい。

ネパール人にとって家でも外でも食べるダルバートだが、特に外でダルバートを必要とするのは主として出先を行脚する商人たちである。農民は家から徒歩圏内の田畑に向かうので外食する必要がない。地方から都会に出てくる行商人や積み荷を運んでインドやチベットを行き来する交易人はいちいち自宅に食事に戻るわけにはいかず、簡便な携行食のほかは旅籠や民家に立ち寄り食事しなければならない。今でこそ旅籠にはチャウミンやモモなどメニューの選択肢があるが、一昔前までは食事といえばダルバートかディロ(雑穀の粉末を練ったもの)しかなく、また現代のように豊富なメニューを求める客などいなかった。

昔ながらのスタイルで営業するポカラ郊外の食堂


さてここで外食料理としてのダルバートの歴史と変遷をたどってみたい。従来、行商人たちを相手にダルバートを出していたのは旅籠だったが、1950年代に発生したチベット動乱で中国政府はネパールとの国境を封鎖。そのためチベットとネパールを結ぶ街道沿いにあった旅籠は主要な商人客を失う。しかしその穴を埋めるように、70年代以降は外国人トレッカーが増加。街道筋の旅籠も彼ら相手に食事や宿を提供するスタイルへと変化していった。当初は外国人相手であってもダルバート一択という旅籠が多かったが、次第に彼らの口に合わせた料理を出すところが増えていく。とりわけアンナプルナ内院やムクティナートへと至るトレッキング道周辺に居住していたタカリー族の旅籠では、他の街道筋周辺に住む諸民族に比べ行き届いたサービスの提供と、何より女性たちが料理上手であったため評判となった。いつしか「タカリー族の女性の作るダルバートは美味い」というイメージが醸成され、外国人トレッカーや行きかうネパール人らによって国内外へと拡散されていった。

きらびやかなタカリー・ダルバート


90年代に入ると山村部で共産武装ゲリラが勢力を拡大しはじめる。他の民族よりも商売がうまく、比較的富裕だったタカリー族は彼らの格好の標的となった。やむなくカトマンズなどの都市部へと避難した彼らの一部がはじめたのが、それまでトレッカー相手に培ってきたノウハウをもとにした飲食業だった。店名に自らの氏族名である「タカリー」を冠する店が散見されるようになる。ネパール在住経験の長い人によると、90年代ごろまでカトマンズ市内にはタカリーの名を冠したレストランはほとんど存在しなかったらしい。それが2000年代以降、旅行者が集まるタメル地区を中心として「タカリー・バンチャ」「タカリー・キッチン」といったタカリーと名のつく店が続々と増えはじめた。そこでは「タカリー・ダルバート」という名で真鍮または青銅の豪華な食器に盛り付けられた、品数の多い華やかなダルバートが生み出され、外国人観光客だけでなく在住ネパール人にも人気を博していった。

一種の料理ブランドと化したタカリーの名を冠した料理や店を、自らの出自とは無関係に出すオーナーが増えていったのもこの時代。タカリー族の知人とカトマンズ市内を歩いていると「あそこにタカリー・ダイニングとあるでしょ? でもオーナーはグルン族なんだよ」などと指さして笑ったものである。しかし当初こそ単なる摸倣だった料理は次第に普遍化し共有されていった。それは国境を越えたインドに行くとより顕著だった。

2010年代ごろ、ふと思い立ってインド国内に点在するネパール料理屋巡りをしたことがある。その結果、インド国内にあるネパール料理店のメニューにはたいてい「タカリー・ダルバート」が置かれていることがわかった。もちろん店のオーナーやコックはタカリー族とは縁もゆかりもない。というより、インド国内にあるネパール料理店のオーナーがタカリー族だった例は自分が食べ歩いた限り一軒もなかった。

インドの街でもタカリー・ダルバートの名は浸透している


あれは東インドのシリグリという街だった。やはりタカリー・ダルバートを出していたある店のオーナーに私は疑問をぶつけてみた。オーナーや作り手がタカリー族ではないのになぜ、タカリー・ダルバートを出すのですか?と。すると彼女の答えは明快だった。

「確かに私たちはタカリー族じゃありませんが、料理はすべてタカリー族のレシピで作っています。中華料理を作るのは中国人、イタリア料理を作るのはイタリア人だけじゃないでしょう?」

タカリー族のレシピで作れば、調理人がインド人だろうがアフリカ人だろうがタカリー料理になる、という当たり前といえば当たり前の事実に、私は深く納得してしまった。彼らの意識の中では、タカリー・ダルバートはすでに民族性や地域性をとっくに越えたユニバーサルな料理になっているのである。

シリグリの街にあったタカリー族ではない料理店オーナー


ネパール国内において料理上手な民族の味、といったイメージで広まったタカリー・ダルバートはいつしか特定の民族料理という枠組みを離れ、隣国インドでさらに普遍化され、また外国人ツーリストや海外移住したネパール人飲食店経営者らにより世界中に拡散していった。今や日本のネパール料理店でも定番となったが、それはほんのここ2~30年の話である。





小林真樹
インド料理をこよなく愛する元バックパッカーであり、インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。買い付けの旅も含め、インド渡航は数えきれない。商売を通じて国内のインド料理店とも深く関わる。
著作『食べ歩くインド(北・東編/南・西編)』旅行人『日本のインド・ネパール料理店』阿佐ヶ谷書院
アジアハンター
http://www.asiahunter.com


インド食器屋のインド料理旅」をまとめて読みたい方はこちら↓