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ダルバート【1】 500円ダルバートの発祥

インド食器屋「アジアハンター」の店主・小林真樹さんが、食器買い付けの旅や国内の専門店巡りで出会った美味しい料理、お店、そしてインドの食文化をご紹介します。


数年前、新大久保界隈のネパール料理店で出す「500円ダルバート」が話題になったことがある。ダルバートとはダル(豆汁)とバート(ご飯)で構成されるネパールの定食で、料理名であると同時に食事そのものを指す言葉としても使われる。日本で「ご飯」という語が狭義の米飯と広義の食事どちらも意味するのと似ているだろうか。このネパールの食を象徴する「ダルバート」が話題になった経緯を追っていくと、日本におけるインド料理店の成り立ちと背景がよく見えてくる。

1960年代から70年代にかけて、日本における最初期のインド料理店の多くはインド人または日本人によって経営されていた。当時のオーナーたちは貿易を本業にした人が多かった。モティのサニー氏、マハラジャのコタリ氏、サムラートのカプール氏、またこの連載の最初に登場したラージマハルのマルホトラ氏もすべて貿易業者である。

インド料理店である以上「インド人」コックを雇わなければならない、と当時のオーナーたちは考えていた。だからわざわざインドまで出向き、一流ホテルに勤務している人材をスカウトしていた。先行業者がいない時代、インド料理店業をいとなむためのノウハウは何もなく、メニューの策定から内装工事にいたるまですべてが手探り状態だった。また当時は一つの店で雇えるインド人コックは一人だけ、などという制約もあったという。

日本のインド料理黎明期から営業を続けるモティ


時代が下り、初期のインド料理店は順調に支店を増やしていき、また新規開業するインド料理店も増えていった。新規開業には異業種からの参入だけでなく、初期の店で雇用していたコックが独立して開業するケースが見られた。店が増えれば人手が必要となる。こうして80年代後半以降のインド料理店増殖期にかけて、インド人コックに加えてネパール系のコックが雇用されていくようになる。実は当時からすでにインド国内の厨房で働くネパール人は多かったという。ただし初期のころはインド国籍を持つネパール系「インド人」がコックとして来日していた。店側はあくまでインド人のコックを欲しがったのである。

実はインド国籍を持つネパール系インド人は今でもインドにごまんといる。これは時代によってインドとネパールの国境線が推移したためでもあり、今でも親戚が国境の向こうのインド側にいるというネパール人は多い。インドの公用語の一つがネパール語であるのもそうした理由による。国境をすべて海で隔てられた日本人にはなかなかイメージしづらいが、地続きに接続するインドとネパールとの文化的境界はきわめてあいまいで、行政線のここから右がインド文化、ここから左がネパール文化などと単純に峻別することは出来ない。

多くのコックを輩出するインド・ネパールの国境付近


さらに多民族社会のネパール国内でマジョリティであるバウン、チェトリというヒンドゥー教徒たちは、もともとインドから数世紀前に渡来し定住したアーリア系の人たちで、ルーツを現在の北インド人と同じくする。よく「ネパール人が作るインド料理はニセモノ」だなどという風説がまことしやかに流布されるが、出自的・文化的に見て「古インド人」たるバウン、チェトリが北インド料理を作るのはむしろ整合性があるのだ。というより、そもそもナン、バターチキン、タンドリー・チキンなどは本連載でも前に書いた通り、外食店用に比較的最近になって開発された特殊料理であり、ネパール人はおろか、どこのインド人の地域属性とも無縁のものでもある。

このようにして80年代後半あたりから、「文化的にきわめて近しい関係の」ネパール人コックが徐々に国内で増えていき、90年代以降一気に急増した。背景には、もともと脆弱だった経済基盤に加えて、反政府運動など国内の政治的混乱がネパールの若者の海外志向に拍車をかけ、さらに渡航を斡旋するブローカーも増えていった点があげられる。2000年代に入ると首都圏にはネパール人経営のインド料理店、略してインネパ店が一駅に一軒以上出現するような飽和状態に陥っていく。

日本で働くネパール人コックの故郷。のどかな風景が広がっている


さて、90年代以降日本に増えていったネパール人は何もコックだけではない。留学生も増加した。とりわけ2015年に発生したネパール大地震を境に、人数的にはコックを凌駕していく。日本にきた彼らがまず初めに直面するのが食事の問題である。「故郷の味が恋しい」というのはどんな国の出身者にも共通する心情だろう。日本には既に飽和状態に陥るほどインネパ店はあるのに、そこにあるのは自分たちの地域属性とは無縁の料理ばかり。同胞たちが経営する店で初めて食べたチーズナンの美味さに開眼するネパール人学生もいるにはいたが、やはり仲間内の宴会時には地元で慣れ親しんだ味で盛り上がりたい。

こうした潜在欲求に裏打ちされて、おもに学生上がりの経営者たちが主導する形でネパール料理を中心に出す料理店が、外国人が多く集まる新大久保界隈で2010年代以降増えていった。主たる顧客は同胞学生だったから定食を学割料金の500円に価格設定。これがヒットし、他の多くの同業者も追従。さらにメディアを通じて日本人にも広く知られるようになっていく。何せこの価格でご飯とダル、グレービー(カレースープ)までおかわり自由なのだ。なお、このスタイルは本国式をまるまる踏襲している。

おかわり自由のダルバート


かくして日本では廉価で美味いイメージが付与されるようになったダルバートだが、ネパール本国ではどのような食べ物として認識されているのだろうか。次項ではダルバートを取り巻くネパールの状況について追ってみたい。





小林真樹
インド料理をこよなく愛する元バックパッカーであり、インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。買い付けの旅も含め、インド渡航は数えきれない。商売を通じて国内のインド料理店とも深く関わる。
著作『食べ歩くインド(北・東編/南・西編)』旅行人『日本のインド・ネパール料理店』阿佐ヶ谷書院
アジアハンター
http://www.asiahunter.com

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