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【日本全国写真紀行】43 長崎県平戸市田助町田助

取材で訪れた、日本全国津々浦々の心にしみる風景を紹介します。ページの都合上、書籍では使用できなかった写真も掲載。日本の原風景に出会う旅をお楽しみいただけます。


長崎県平戸市田助町田助


幕末の志士たちが未来を語り合った、九州の片隅の小さな港町

 平戸市の中心街から北へ3.5キロほど行ったところに、田助という小さな港町がある。田助港が開かれたのはおよそ400年ほど前。平戸藩初代藩主・松浦鎮信まつらしげのぶがここに港を作り、小値賀島おぢかじま、壱岐、呼子などから約50戸を移住させ、臨済宗妙心寺派の天桂寺を創設して田助の管理を任せたのが始まりである。
 江戸時代の後半には、日本各地からやってくる船の風待ち、潮待ちの港として栄えた。特に上方へ向かう薩摩船は田助を寄港地としていたため、大勢の薩摩藩士が訪れた。当時のにぎわった港町の常として、花街もあった。最盛期には遊女屋が30軒、遊女が120人もいたらしい。
 幕末、吉田松陰や勝海舟、西郷隆盛たちも田助を訪れ、薩長同盟の後は、高杉晋作、桂小五郎といった錚々たる志士たちがここで繰り返し密議を重ねた。歴史上最も激動の時代に、日本の未来が、この九州の片隅の小さな港町で画策されていたのだ。
 だが、こうして全盛期には不夜城の名を欲しいままにしていた田助も、船の大型化や機械船への移行に対応できず、昭和初期を境に徐々に衰退してゆく。そして次第に町は小さくなり、知られざる貴重な歴史を秘めたまま、今は静かな一漁村となった。
 田助の町は、湾を取り囲むようにコの字型の3つの町に分かれている。湾に面して右が四軒屋、中央が中町、左が迎町である。四軒屋とは、当時四軒の遊郭(紙屋、田中屋、鶴屋、松田屋)があったことからついた名だという。中町には、幕末の志士たちとゆかりのある「角屋すみや 」と「明石屋」という二軒の建物が残っている。角屋は元廻船問屋で、主人の多々良孝平が勤王の志が高かったことから、薩長の志士たちと交流があった。その縁で、志士たちの表の会合場所として度々利用されていたという。
 角屋を表の会合場所と書いたのには訳がある。実は通りの同じ並びにある、同じく廻船問屋だった「明石屋(旧永山邸)」が、角屋に対し裏の会合場所、つまり密談の場として使用されていたのである。永山家の家伝によれば、西郷、高杉、桂のほか、名前を隠した坂本龍馬もこの家の2階で密談をしていたという。密談は常に秘密裡に行われ、知っていたのは主人と女将だけ。念のため酒肴を運ぶのも女将だけだったそうだ。その女将は、現在のご主人のひいお婆さんとのこと。永山邸は昭和36年に火災で消失したが、翌年、火災前とそっくりに建て替えられ、現在ご主人と奥様で「カフェ明石屋」という喫茶店を営業している。事前に頼んでおけば、ご主人のお話が聞け、当時志士たちのために作られたという隠し部屋や緊急避難用の脱出口なども見せてくれる。ただし営業日が限られているので、ぜひ確認してからお出かけいただきたい。


※『ふるさと再発見の旅 九州1』産業編集センター/編 より抜粋




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