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『深く、しっかり息をして』を読んだ

川上未映子さんの『深く、しっかり息をして』を読んだ。

川上さんの語り口の優しさとか、気になったものに対して丁寧にかんがえるところとかが好きで、一気に読んでしまった。

左手に残ったまだ読んでないページの方がだいぶ薄くなったころ、どうして川上さんは、「女の子」とか「女性」に対して結構たくさんのお話をされていることが気になった。

私は女性として生まれながらも、世代なのか、生理が軽いという身体的なことなのか、女性だから損したとか、女性だから軽蔑されたと感じたことがあまりない。それよりは、個人の実家の太さや頭の良さなど、もっと資本主義的というか、競争社会的・自己責任的な見方で、これまで世の中を見ていることが多かった。

けれども今日、膝を打つような出来事があった。

母が、「(兄の妻に対して)お嬢さんを預かる立場としては」「(この文章を書いている私を)嫁にやるのに」というようなことを言ったのだ。

母の話については理解できたので、「わかったけど」と私はまず、言った。それを言っておかないと、腹の底から湧き上がる違和感を、受け止められずに怒りとして噴射しそうだったからだ。

母と私の考えが違うのは「わかったけど」。嫁に迎えるとか家に入るとか、娘を預けるとか嫁に出すとか、「そういうのは時代錯誤だと思う」と、私はやはり、言わなければいけなかった。

そう、言わなければいけないという感覚に近かった。それらの言葉のどこが私を傷つけたのか、何がひどいのか、ここで言っておかなければならない。

スマホでメッセージを打ちながら、読み直して、和やかな母子の会話に冷や水を浴びせるとわかっていたが、私は言わなければいけなかったんである。

だって、女に生まれついたからって、結婚したからって、もし相手の苗字を名乗ることになったからって、私は私で、嫁にはならないし、あろうことか親の所有物ではないのだから。

そこまで思って、だから川上さんは口酸っぱく、フェミニズムの考えの大切さを話してくれるんだと思った。多分彼女も、言わなければいけないと思っているんではないかと思った。

川上さんはどうして「女の子」「女性」の話を多くするのだろうか、と冒頭に私は言った。でも、今ならわかる。

彼女は、ただ女性という性に生まれついただけの、人間の話をしているんだ。だからこそ、そこでは「女の子」「女性」と言うことに意味がある。私たちだって一人の独立した個人だから、女だという理由によって不当な、不当というか、他の性別だったらされないような意味のわからない扱いを受けるのは、おかしいと言うんだ。

さらには、結婚するからといって、急に「女」(悪い古風な意味での「女」)として扱われるのは、なんなんだろうと思う。急に「嫁に出す」とか言われて、急に「向こうの家に入った」とか言われる。

もしかしたら、私が気づかなかっただけで、これまでも「女」(悪い古風な意味での「女」)として扱われてきたことに、この歳になって気づいただけかもしれない。

だとしたら、なんと酷いんだろう。私は私で、記名性のある個人なのに、「女」として、あろうことか「もの」として扱われるのは、何なんだ。それも、多分私一人がそうされているのではなくて、世の女性性に生まれた人は、多少なりとも味わってきた気持ちなのではないだろうか。

今回のことには本当に、屈辱、悔しさ、怒り、諦め、そのどれでもない感情が、胸いっぱいになった。だからこそ、私は「女」でも「もの」でもないと、言わなければいかなかったし、これからはもう、無視できないと思う。

言わなければ状況は変わらず、この苦痛が永遠に続くのだとしたら、なぜ私がそんな持久戦に挑まなきゃいけないのか、訳がわからなくて発狂してしまうと思う。それこそきっと、女性に生まれついたから、という理由しか考えられないではないか。特に、私の姪っ子(2歳)が大人になるころまで、こんなことになっていたらと想像すると、最悪な気持ちになるんだった。

人生は強制参加ゲームだと川上さんが言っていた。私もそう感じる。どこから来て、どこへ行くのかわからないし、ただ生きるのさえキツイことてんこ盛りの人生。だとしたら、少しだけでも私が感じた生きづらさはクリアしておきたい。そうすれば姪っ子はとりあえず、今より少しは生きやすくなるはず。

そのためにはやはり、言わなければいけないんだ。何度でも、しつこいと思われても、どうしても許せない時には、それは違うと言わなきゃいけない。でないと、体力か気力か財力か権力か、とにかくなんらかの力を持った人の言いなりになってしまう。自分より力を持った人の思う通りの世界で、永遠にお前は間違っている、お前の生き方は認めない、という説教を聞き続けなくてはいけなくなる。

だから言うし、書くし、考えていきたいと思った。みんなが一人として、主体性のある個人として生きていけるのが、多様性なんじゃないだろうか。今の時代の多様性は見かけ倒しすぎる。性別も障害も国籍も、まだまだ壁になっている。違う、不快だ、ひどい、と思ったことは言わなきゃいけないと、やっぱり私は思うんだよ。

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