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紙辞書で呑みたい。

文字の羅列が好きです。
文字が沢山プリントされた印刷物を見ると、ふわっと心が高揚します。文字が印刷されたものを持っているだけで安心感があるし、眺めてられる時間はとても心が安らぐ。

私は音楽も好きですが、音楽を聴く時はどれだけ聴き慣れたものでも歌詞を追いながら聴くことが多いです。幼い頃は歌詞カードを見ながら、スマホで聴くようになってからは歌詞のページを見ながら。歌詞を書き写すことも好きで、大人になってからも気に入った歌詞をルーズリーフに書き写してファイルに纏めていたりします。


「文字」に関することで原体験を遡ってみると、一つ思い出すことがあります。
あれは幼稚園か小学校入学あたりかと思いますが、母がある日「毎日辞書の中で一つでも良いから気になる言葉を見つけなさい。」と言ってきたことを覚えています。辞書に付箋を貼っている映像が頭の中に朧げながら残っているので、好きな言葉が書いてあるページに付箋を貼りなさい、とでも言われていたかもしれません。

父が昔作ったカセットテープとかが並んでいる棚になぜか辞書も入っていて、その棚を開けてペラペラと紙をめくった記憶があります。ただ、「母に言われて辞書を開いていたことはある」くらいの記憶で、「幼少期は辞書ばかり見ていた」とか「欠かさず毎日見ていた」というわけではないので、これは特に習慣化したりせずすぐ他のものに目移りしたのだと思います。
現に、当時気に入った言葉なんて一つも覚えておらず、キノコの図鑑にある「ワライタケ」の説明文を見て「こわい…」と思っていた記憶の方がクリアに残っているので、割とすぐ飽きて他の本を見るようになっていたのだと思います。母もいわゆる教育ママみたいな人間ではなかったので、「とりあえず良さそうだから辞書読ませとこ」くらいの気持ちだったのか、読まなかろうがとやかく言うことはありませんでした。私が忘れているだけかも知れないですが。


とはいえ、私は幼い頃から「文字を見る」ことや「ページをめくる」という行為が好きだったことは変わりありません。

私が通っていた中学校の国語の先生は、大川さんの担任でもありましたが、しょっちゅう「辞書と友達になりなさい。」と言っていました。
国語の教室に入ったら、いろんな種類の辞書が置いてある中から一人一つ選んで机に置いておかなくてはいけないルールがありました。それを忘れると、「友達を忘れてきてはいけない」と怒られてすぐに取りに行かされていた気がします。

中学時代に辞書それぞれの違いが明確に分かっていた訳がないですが、私はいつもオレンジ色の三省堂国語辞典を使っていました。硬派そうな旺文社はなんとなく外して、なかなか尖っている新明解国語辞典に憧れみたいな気持ちはありましたが少し怖くて、やさしさに特化した三省堂の方が、みたいな気持ち。別に聞いたことはないし本人は覚えてなさそうですが、大川さんは新明解を使ってそう。


今やネットですぐに知らない言葉を調べられる時代ですが、紙辞書はいつまでも残っていて欲しいものです。これは中学の英語の先生が言っていたことですが、紙辞書は自分が調べた言葉の前後にある言葉も知識に出来るから良い。確かにそう。知識欲が満たされるのは、確実に紙辞書でしょう。

単純に知識を入れれば良い中学校を卒業して、高校・大学では学ぶ範囲が幅広くなったり、学んだことを基に思考することが求められるようになって、手っ取り早く疑問を解消できる電子辞書やスマホ優勢になっていましたが、社会人になれば全てが自由なので紙辞書に戻ることにしました。


つまり、今日国語辞典を買いに行ったのですが、大人になっても私は新明解に手を出すことが出来ませんでした。やはり三省堂国語辞典。
新明解はなんだか言葉の解釈に一つの答えが出ているような感覚がしてしまい。私は考えることが好きなので、説明は大勢との共通認識になり得るところまでに留めて、あとの解釈はご自由にどうぞ、くらいの方が心地良く感じました。


私の辞書選びエピソードはどうでも良いのですが、毎日文章や歌詞を眺めていてなんとなく感じる安堵みたいなものの原体験を探りたかったのでこんな記事を書きました。

それとこの前大川さんと、辞書で呑みてえな、と話していたので、今年中には実現したいと思います。

それでは。



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