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掌編小説「引っ越し蕎麦はいらない」

 わたし、魚沼千夜は三人姉弟の真ん中。おうし座。出身は新潟。好きなものは美味しい食事とお酒。
 就職をきっかけに上京して数年。たまに友達や先輩とお茶をしたり、甥っ子たちの子守りをする。仕事もやりがいを感じ始めて、それなりに充実した独身生活を送っていた。
 このままでもいいと思っていたけれど、三十歳になった今年、守屋宗一郎さんと入籍した。
 同い年の宗一郎さんとの出会いは、結婚相談所だった。
 お姉ちゃんは結婚して男の子が二人いて、弟は彼女と同棲中。わたしは上京してから地元の彼氏と疎遠になってそれっきり。
 寂しくはないし、焦りもない。むしろ自由にさせてくれる両親よりも、祖母や親戚からの悪意のないお節介から逃げたかった。
 宗一郎さんの場合は、先に弟が家庭を持ったから、「あなたも早く孫の顔を」との催促が大変だったらしい。
 自発的ではなく、せっつかれるような形でのお見合い。そんな二人だったから、意気投合するまで時間はかからなかった。今は仕事を優先したい方針も一致していた。
 義理の両親には悪いけれど、親と結婚するわけじゃない。

 新居への引っ越しと、入籍の諸々の手続きがようやく終わった。
 備え付けの家具はあるけれど、足りないものは少しずつ揃えよう。荷物が多いわたしはまだ手付かずの段ボールを横目に、これからの新生活へのイメージを膨らませた。
 今まではこじんまりした冷蔵庫だったから、このサイズなら食材を買いすぎても全部収まりそうだし、念願の三口コンロも早く使いたい。でも、今夜は料理をする元気はない。
「あまりお腹は空いてないけど、夕食はどうしようか」
 真新しいカーテンを閉めながら、宗一郎さんが言った。
「わたしもあんまり。軽くつまむだけにする?」
「そうだね」
 わたしは緑色の折り畳みテーブルを広げた。一人暮らしを始めた頃から使っていたから、愛着があって捨てられなかった物だ。
 戸棚にあったタレ味の焼き鳥缶を、適当なお皿に盛る。ここに溶き卵とマヨネーズを混ぜて、レンジでチンすると親子丼風になって美味しいけれど、それはまた別の機会に。
 さすがに焼き鳥缶だけは物足りないから、ベビーチーズとピクルスも並べた。
「グラスは?」と、宗一郎さんは冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「ううん、そのままで大丈夫」
 わたしの周りは下戸が多かったから、一緒にお酒が飲めるのは嬉しかった。まだお互いに知らないことが多いけれど、これから少しずつ知りたいと思う。
 床にクッションを敷いて、少し窮屈なテーブルを挟んで向かい合う。
「じゃあ、わたしと宗一郎さんのこれからの生活に……」
「乾杯」
 わたしたちは缶ビールをコツンと鳴らしてから、目が合って吹き出した。畏まったことはするものじゃない。缶に描かれたキリンも微笑んでいるように見えて、ますますおかしかった。
 ビールはよく冷えていて、飲み慣れたいつもの味が美味しく感じた。
 料理とお酒の組み合わせも大事かもしれないけど、晩酌に理屈は必要ない。品数だって関係ない。だって、晩酌は楽しい一夜を過ごすものだから。

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