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新釈畜犬談

 私は無類の犬好きである。
 犬が好き過ぎて目に付くたびに掌で覆ってきた短編を、ある夜、子にせがまれて読み聞かせることになり、なんとか、道徳的な言い訳が付かないものかと思案しながら、読み進めた。
 ともかく、勧善懲悪に終わりさえすれば、矯角殺牛だろうと陳腐な子供騙しだろうと、何だってよかった。そう思って、口から出まかせで話し出したものの、思いのほか自分でも腑に落ちて膝を打ち、一つの光明をみたから、ここへ書きつけることにした。
 社会衛生史への無学無知や、人間様が人権侵害劣悪労働公害汚染にて苦しめられる苦界の時代背景で、山川草木悉皆を優遇する改竄を施せば、冷血鉄面皮の誹りを免れぬやもしれぬ。
 それよりなにより、最も恐ろしいのは、よしんば売れぬ三文小説家のタワゴトだとしても、熱狂的な古参信者にとってみれば公式への許しがたい冒瀆と痛罵されることだ。
 だが、思いついてしまったものは仕方がない。確かに、公式には詳しくはない。人生に何度かやってくる痛ましい流行りに乗って数編読んだだけに過ぎぬ。
 私は生来の自意識過剰で架空の敵意に怯える人間であるから、くどくどと言うのだが、私がこれについて語るのは、まとわりつく子の手を邪険に振り払い、ろくに口を糊することも出来ぬ仕事を優先させている手前、本を読まれぬ、読まれぬ本があるなどとは子に向かって口が裂けても言えぬからだ。
 あとは、犬が好き。
 そこだけは公式古参にも勝ると、人生で余り発揮したことがないほどの強い信念を持って言える。

 畜生の環境向上は、それすなわち、人間様の環境向上である。
 自分の環境を向上させたいのなら、何よりもまず、弱者の友になることだ。
 世界の本質に迫るあらゆる職業にとっては、これが出発で、また最高の目的なのだ。
 これほどに単純なことではあるが、私はすっかり忘れていた。
 一昨日に見た夢を覚えていても、世界の真理どころか、今朝の飯の菜を忘れるのが私である。
 その一点においても、この愚筆は書き残す甲斐があると思っている。

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 私は、自己については自信がある。
 いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。
 私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。
 よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。

 諸君、自己は猛獣である。
 いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。自己はかならず鎖に固くしばりつけておくべきである。
 少しの油断もあってはならぬ。
 世の多くの飼い主は、みずから恐ろしき猛獣を養い、これに日々わずかの残飯を与えているという理由だけにて、まったくこの猛獣に心をゆるし、ムギやムギやなど、気楽に呼んで、さながら家族の一員のごとく身辺に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、その猛獣の耳をぐいと引っぱらせて大笑いしている図にいたっては、戦慄、眼を蓋わざるを得ないのである。
 不意に、喰いついたら、どうする気だろう。
 気をつけなければならぬ。飼い主でさえ、噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を、(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信にすぎない。あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘徊させておくとは、どんなものであろうか。

 昨年の晩秋、私の友人が、ついにこれの被害を受けた。いたましい犠牲者である。友人の話によると、友人は何もせず横丁を懐手してぶらぶら歩いていると、自己が道路上にちゃんと坐っていた。
 友人は、やはり何もせず、その自己の傍を通った。
 自己はその時、いやな横目を使ったという。
 何事もなく通りすぎた、とたん、おれがおれがといって右の脚に喰いついたという。災難である。一瞬のことである。
 友人は、呆然自失したという。ややあって、くやし涙が沸いて出た。

 さもありなん、と私は、やはり淋しく首肯している。そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、ないではないか。

 友人は苦労人で、ちゃんとできた人であるから、醜くとり乱すこともなく、三七、二十一日病院に通い、注射を受けて、いまは元気に立ち働いているが、もしこれが私だったら、その自己、生かしておかないだろう。

 私は、人の三倍も四倍も復讐心の強い男なのであるから、また、そうなると人の五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、たちどころにその自己の頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛んで、べっと吐き捨て、それでも足りずに近所近辺の飼い自己ことごとく毒殺してしまうであろう。
 こちらが何もせぬのに、突然おれがおれがといって噛みつくとはなんという無礼、狂暴の仕草であろう。
 いかに畜生といえども許しがたい。畜生ふびんのゆえをもって、人はこれを甘やかしているからいけないのだ。
 容赦なく酷刑に処すべきである。昨秋、友人の遭難を聞いて、私の畜自己に対する日ごろの憎悪は、その極点に達した。

 青い焔が燃え上るほどの、思いつめたる憎悪である。

 (大略)

 家へ帰って、「だめだよ。薬が効かないのだ。

ゆるしてやろうよ。

あいつには、罪がなかったんだぜ。
芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ」私は、途中で考えてきたことをそのまま言ってみた。
「弱者の友なんだ。
芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。
こんな単純なこと、僕は忘れていた。
僕だけじゃない。
みんなが、忘れているんだ。
僕は、ムギを東京へ連れてゆこうと思うよ。友がもしムギの恰好を笑ったら、ぶん殴ってやる。卵あるかい?」
「ええ」家内は、浮かぬ顔をしていた。
「ムギにやれ、二つあるなら、二つやれ。おまえも我慢しろ。皮膚病なんてのは、すぐなおるよ」
「ええ」家内は、やはり浮かぬ顔をしていた。(終)

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原典:太宰治「畜犬談―伊馬鵜平君に与える―

追伸

読んでくださって、有り難うございます。
ご笑納くだされば幸いです。

冒頭の駄文によって、本文の無駄のなさが、ありありと、浮き彫りになったのは発見でした。

自己愛と自愛は違うそうです。
自己嫌悪し、自己を馬車馬と化すべく鞭打つ代わりに得ている飴が、自己愛。
自己を育て自己を活かし自己に安じて、世界や他者に目を向ける余裕を生むのが、自愛。

そのような自己愛者の自己への嫌悪と見立てたらどうかと思いつき、これを書きました。

犬を毒殺する描写が昔からどうしてもどうしても無理で、生き残ったから良かったもののそれでも無理で、どうにかこうにか、こうすれば読める、と思って今回、書き換えたところ、この短編は裏返しの弱者讃歌なのではないかと、理解をすっかり改めました。
自己でも罷り通ったように、あの犬は、犬だけを象徴するわけではないのかもしれません。
この作家の手袋を裏返すような作品は、いくつか心当たりがあるので、その奥深さに感銘を受けました。


こうすれば読める、というのは、その時点で、私の狭量な自意識、自己愛の証左だと痛感しておりますが、読めないものは読めないという自由も、また、ある種の自愛だと、最近は考えています。

遅めの梅雨が夏に絡み、熱帯雨林のような日々が続いておりますが、みなさま、どうぞ、ご自愛ください。

不尽

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