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彼女と彼のエルシャダイ

 価値観が合うっていうのは結婚には重要だけど、その中でも一番大切なのは金銭感覚じゃないかな。

 金銭感覚とはTシャツに二万円出せるかということより、タクシー代に二千円を使って体力と精神力を温存するか、二千円がもったいないと炎天下を歩き夕方疲れて不機嫌になるか、って意味なんだと思うわ。

 という内容のバズってたツイートを彼に見せた。デート中にLINEで送ったところで彼は見ないから、画面を直接向けて見せた。この紋所が目に入らぬか、と水戸黄門のように。

 彼はひれ伏すどころか、はははと笑い飛ばした。なにがおかしいのよと睨む。

「この問題、百五十円で解決できるよ」

「えっ、マジ」

「うむ、歩きながら教えてしんぜよう」

 駅の屋根の下でさえ蒸し暑いのに、明度を最高値にいじったような陽射しの中に飛び込んでいくのは気が進まなかった。タクシーやバスに乗り込んでいく人々を恨めしげに眺める。

「ホテルどっちだっけ」

 ただでさえ方向音痴のくせに、歩くという判断を下す彼に不満を覚える。グーグルマップを起動し、また印籠のように見せつけてやった。徒歩三十九分という数字に、直接マーカーを引いてやりたい。

 ふむふむとしばらく見つめて、「お、あったあった」とうなずくと、彼は歩き出した。あったもなにも、一目でわかるだろうに。

 前を歩く彼のTシャツは、五百円くらいだ。ユニクロで一緒に買ったから知っている。パックに入ったやつ。ズボンもユニクロ。靴はコンバース。ザ・日本人の制服。せっかくのデートなのにと思わなくもないが、がたいがいいので似合ってしまうのがムカつく。

「あっつー」

「ちょっと、それNGワードでしょ」

「いつ決まったの」

「さっき。もう、だからタクシーに乗ろうって言ったのに」

「ああ、さっきのツイートね」

 彼は鞄から扇子を取り出すと、汗ばんで変色してきた胸元を仰いだ。二、三回自分を扇いだあとは、並行して歩きながらこちらを扇ぎ始めた。風が心地良く、少しだけ苛立ちがおさまる。

「話をしよう。あれはいまから三十六万、いや、十一日ほど前にバズったツイートだったか。まあいい。私にとってはつい数分前の出来事だが、君にとってはたぶん、数分後の出来事だ」

「はあ」

 つい最近一緒に見て笑い転げたエルシャダイネタを、よりにもよってここで持ってくるか。このクソ暑いのにそのくどい言い回しにうんざりする。こちらを扇いでる汗だくの顔は、ルシフェルと比べるとH&Mとしまむらくらいの差がある。どっちも安いけど。

「さっきの話だと選択肢はいくつ考えられる? 選択肢、せんタクシー」

「二つでしょ。タクシーに乗るか、乗らないか」

 くだらない駄洒落はスルーする。寒さで体感温度を下げようという画期的な試みかもしれないが、うんざり度にポイント加算されただけだ。

「どっちがいい?」

「タクシーで帰る」

 彼がにやりとほくそ笑む。

「そんな選タクシーで大丈夫か」

「大丈夫だ、問題ない」

 仕方ないので付き合ってやった。動画だとこのあとイーノックはボコボコにされるが、この場合は最良の選択はタクシーに乗ることだろう。

「じゃあシミュレーションしてみよう」

 普段の口調に戻って、彼が続けた。

「二人はタクシーに乗りました。車内は冷房が効いてて快適。あっという間にホテルに到着。タクシー代を二千円払って、彼女は上機嫌」

「うん、問題ないじゃん」

「けど彼はどうだろう。彼にとっては二千円は手痛い出費だったかもしれない。そうでなかったとしても、歩いて行けば済む話なのに、という自分では合理的だと思ってる判断が却下されたから不満が残る。車内の彼はどんな様子だったかな。むっつりと黙り込んで、一言もしゃべらなかったんじゃない?」

「それは彼が悪くない?」

「でもそれが人間の心理。とにかく彼はふてくされてる。ホテルに着いてからも、さっさと寝ちゃうだろうね。せっかく体力も精神力も温存したのに。そんな気分じゃないから寝る。なんなら体力と精神力の温存のために寝る」

「は、なんで?」

「まあそれは極端だけど、たとえ彼女に調子を合わせても、彼の中には不満は溜まってくよ。結婚っていう長いスパンだと、それが命取りになる」

 納得がいかない。しかしそうなる可能性もあることは想像ができた。似たような体験を、元カレのときも、彼ともしたことがあるような気がする。男は考えを却下されると拗ねる。

「神は言っている、ここで死ぬ定めではないと」

 またルシフェルの口調に戻って、彼が指を鳴らそうとした。汗で滑ってほとんど音は鳴らなかったが、彼は続けた。

「じゃあ次はタクシーに乗らずに歩いて行くパターン。この場合は彼女が不機嫌になるんだっけ」

「違う違う。不機嫌になるのは彼。あついー、疲れたー、死ぬーって。私の忠告も聞かずに」

「私って。まあともかく、彼女も不機嫌になるんでしょ。現になりつつある」

 指摘されて、尖らせていた唇を引っ込める。全然、別に、そんなことないし。

「どっちもどっちだけどね。楽しく歩いて帰ることもできたはずだけど、道中彼女はずっとふてくされてる。さっきの彼みたいに。タクシーに乗ればお金はかかるけど快適だという私の合理的な判断を却下しやがってこの野郎、と思いながらうつむいて彼のあとをついていく」

 勘に障るが黙っていた。口を挟むと機嫌を損ねるかもしれないし、暑くてしゃべるのがしんどい。

「その不機嫌は彼にも伝わるんだよ。そしたら二人で街の景色でも眺めながら歩こうと思ってた彼も面白くない。暑い、疲れた、くらいしか言うことがなくなる」

「どっちみち二人とも不機嫌になってんじゃん。それって価値観が合わないってことでしょ」

「価値観が完全に合致する相手なんか見つからないよ。シンデレラコンプレックスとか、白馬の王子様症候群と同じ」

 立ち止まると、彼も立ち止まった。

 こいつ女心をわかっていない。いや、それよりたちが悪い。わかっているくせに上から目線であざ笑っているのだ。

 憤然と見上げて口を開く。

「もうひとつ選択肢があった」

「へえ、どんな」

「別れる」

 キッとにらみ据えて言ってやった一言すら、彼は笑い飛ばした。

「タクシーに乗るか乗らないかくらいで?」

「だって、価値観が合わないから」

「結婚してから気づいたらどうするの。たとえば、食洗機を買うか買わないかとか。子供に習い事をさせるかどうかとか。そうやって価値観がぶつかるたびに別れるわけにもいかないでしょ」

「じゃあどうすればいいの」

「言えばいいんだよ」

 彼はなおも扇子で扇ぎ続けてくれている。

「たとえばタクシー問題、彼女はどんな不安を抱えてる?」

「歩いて帰ったら彼が不機嫌になるかもしれない。ホテルについても楽しくなくて、せっかくのデートが台無しになるかもしれない」

「ならそう打ち明けたほうがいい。彼だって言ったほうがいいね。こんな距離でお金をかけるのは嫌だ。二人なら歩いて帰っても道中楽しいだろうと思ってた。って。そしたら共通項が見えてくる。二人とも本当は二人の時間を楽しく過ごしたいんだよ」

「けどさ、結局私たち歩いてるじゃん。で、私は不機嫌だよ、どうするの」

「どちらかが最良の選択をするのが正解じゃないよ。二人で最良だと思える選択肢を考えていくのが大切。彼女は暑くて疲れて彼が不機嫌になるのが心配。彼はこれくらいの距離でお金をかけて解決する彼女の金銭感覚が不満」

 扇子の角と角をつまんで、パタンと閉じる。汗をかいてるのに彼の顔は涼しげだ。

「だったら両方納得できる妥協点を探せばいい。さっきツイートを見せてくれたからひらめいたんだよ。百五十円の解決法」

「もう、回りくどい。さっさと教えて」

 彼は得意げな笑みを浮かべて振り返ると、数メートル先のコンビニを指さした。

「パピコを買って半分こして食べながら歩こう。そしたら涼しいしおいしいし楽しいよ、きっと」

「天才かよ」

 ほんとは暑くて疲れて不機嫌になるのはいつも私が先だけど、もうちょっとだけ歩いてもいいかなと思えた。彼と一緒なら。

 私たちは常に二人にとって最良の未来を思い、自由に選択していけばいいのだ。さあ、いこう。パピコと見せかけてハーゲンダッツをトルノデス。

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