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語られてこなかった自主避難/証言で綴る母と子の実態

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加藤文宏


 筆者と協力者による首都圏からの自主避難者への帰還支援は営利のための活動ではありません。協力者は福島県から神奈川県に避難した震災被災者の女性Hと、この女性の旧友Mでした。MがHに紹介した避難相談が筆者にもたらされて円満解決した実績をもとに、寄せられる事案が増えて第二、第三の相談例になりました。自主避難女性にとって、同性かつ避難者であるHの存在は心を開きやすかったものと思われ、筆者が中心になって対応した事例でも折々にHが避難者と連絡をとっています。
 なお支援とは避難者の考え方を正したり、強制的に連れ戻す活動ではありません。可能な限り家族との関係を保ち、双方の話を聞き、正確な情報を伝え、行政などの窓口を紹介しながら、最悪の事態を防ぐのが目的でした。
 筆者と協力者から避難者へ金銭の支援を行うべきではないとしてきましたが、緊急避難的に貸付を行なった例もあります。また一部の反原発活動家に筆者らの存在が知られたことで警察沙汰となるほどの誹謗中傷や暴力沙汰を経験しました。
 今回紹介するAだけでなく円満解決に至らなかった例が圧倒的多数でした。成功例であっても当事者にとってはつらい経験であるほか、個人情報保護を約束して支援を行なったため公表可能な逸話には限りがあります。当記事ではプライバシー保護のため仮名を使用したほか、経緯やできごとなどを一部割愛しています。

女性Aの事例

Aへの支援中に得られた証言をもとに自主避難とはどのようなものであったか紹介する。

黄色い粉

 Aは自主避難としては遅い2013年の夏に小学生の息子を一人連れて神奈川県東部の自宅から近畿地方に移住した。彼女の友人Bから筆者が相談をもちかけられたのは、避難後の同年8月だった。
 Aは2011年3月20日頃に自宅マンションの敷地内で見つけたスギ花粉を原発事故で飛散した劣化ウランと信じ込んで不安を覚え、このままでは小学生の息子が「たいへなことになってしまう」と夫に訴えた。すると夫は黄色い粉は劣化ウランではなく花粉であると理路整然と説明しはじめ、表情が得意げであったことからAは馬鹿にされたような気がした。この話を夫が彼の実家に伝えたらしく義父母にまで大袈裟と言われたときはもう誰にも頼れないと思った。
 Aは夫を評して「本質に気付こうとしない」と筆者にこぼすことが多かった。いっぽう夫は「Aから考え方が合理的すぎる、世の中はそんなふうにできていない」と言われていたという。
 Aがスギ花粉を原発事故で飛散した劣化ウランと信じ込んだ直後に地域の母親を対象にした掲示板(BBS)にアクセスしてみると、被曝の不安を語りあうスレッドがあったので躊躇うことなく会話に加わった。掲示板でツイッターの話題が取り上げられていたことから休眠状態だったアカウントを使って反原発派の著名人を次々とフォローした。掲示板とツイッターの双方を行き来して同じ不安を抱えた人たちが多いのを知り、互いに共感しあい「不安なのがとうぜん」と自分の感覚に自信を得た。
 また利用している生協だけでなく、原発事故について情報発信を盛んにしている他の生協のメールマガジンを読むようになり、どれだけ自分が原発だけでなく政治に無関心だったか思い知らされた。

プロメテウスの罠[我が子の鼻血、なぜ]

 ツイッターのコミュニティーから朝日新聞に連載されている「プロメテウスの罠」を勧められて、購読中の日経新聞に加え朝日新聞を朝刊だけ契約することにした。2011年12月2日に掲載されたプロメテウスの罠の[我が子の鼻血、なぜ]と題する記事で東京都町田市の小学生が「4カ月の間に鼻血が10回以上出た。30分近くも止まらず、シーツが真っ赤になった」と報じられて、Aは一刻の猶予もないと焦った。
 「プロメテウスの罠」の半年前に東京新聞が福島県郡山市で鼻血を流す子供がいると報じた記事をAは未見だったが内容を噂として耳にしていた。このときはティッシュなどで拭える程度の出血を「被曝の鼻血」として想像したという。いっぽう町田市の例は、Aが暮らしていた町から10Km程度しか離れていないところで「シーツが真っ赤」に染まるほどの鼻血が出たと描写されていて「怖くなった」。
 夫から「大げさな記事だ。責任の所在を曖昧にする書き方になっている」と言われたが、「放射能を吸って鼻血が出たかはっきりしないと書いてあっても、記事はこういう書き方をするものだと思っているし、新聞が嘘をつくはずがなく、このお母さんが嘘をついて得をするとも思えない」とAは報道を疑うことがなかった。

(朝日新聞/プロメテウスの罠/[我が子の鼻血、なぜ]と前後の記事/朝日新聞社・信頼回復と再生のための委員会資料より)

背中を押される側へ

 避難するなら福島県から遠く、教育や仕事に不便がない近畿地方の都会しかないと考えたが最大の障害は被曝への不安に理解のない夫の存在だった。子供の転校を考えると進級前の春休みや新学期前の夏休みが避難の好機だったが、夫の説得に手間取ったことで子供の学習環境と、自分の転職先を近畿地方に整えられなかった。また実母が病気で入院するなど課題が多く、避難できないまま2013年になり、この間に子供が病気や怪我をするたび以前より症状が重かったり治りが遅い気がして放射性セシウムのせいではないかと避難できない自分を責めた。
 掲示板やツイッターで福島県の人々や首都圏の母親たちに避難を呼びかけていたAが、2012年半ばを過ぎると「あなたはなぜ避難しないのか」と背中を押される側にまわっていた。こうなると日に日に強くなる被曝への不安だけでなく、自分が日和見の嘘つきとみられるのではないかという気がして、ツイッターで知り合った支援者にアパートを紹介してもらう段取りをつけて何ひとつ準備できないまま子供とともに家を出た。

六畳二間にキッチン付き

 荷物の梱包が間に合わず子供には学習用具を詰めたランドセルを背負わせ、Aも両手とリュックに当面の着替えや最低限の生活必需品を持って新横浜駅から新幹線に乗車した。自分たちだけが車内で浮いていると感じたが、このことで「むしろ気持ちが盛り上がった」という。大阪市内で支援者と落ち合い、ひとまずビジネスホテルに落ち着いて明日からの行動について打ち合わせをした。このときアパートに入居してもエアコンがないことにはじめて気付いて「忘れていた。買わなくてはいけないものが増えた」と思った。
 「こういうの慣れているから大丈夫」と自信ありげな支援者とともに不動産屋に行った。子供との長期生活にワンルームは無理があり、六畳二間にキッチン付きの部屋がどうしても必要だった。家賃を安く抑えるためには軽量鉄骨造のアパートしか借りられないと諦めかかったとき築年数が古い賃貸マンションが見つかった。支援者に保証人になってくれたことを感謝すると、「私より共産党に感謝して。何かあったら共産党がバックアップしてくれるから大丈夫」と言われ、Aはこのときはじめて彼女が共産党の党員だと知った。
 六畳二間にキッチン付きの部屋は「空っぽだった」ため、この日から家財を整える買い物に追われた。想定外だったエアコンを含め10万、20万と貯金が瞬く間に支払いに消えた。手が空いたところで支援者とともに反原発の活動家の集まりに出席して挨拶をしたが、「あとになって思えば、あまり歓迎されていなかった。東北からの避難者のほうが格上だった」という。
 小学校の夏休みは家財を揃えて生活の段取りを整えるだけで終わり、この間にAは仕事を見つけるつもりだったが求職活動は思うように捗らなかった。

避難生活と現実

 Aが彼女の実家に居場所を知らせ、これを伝え聞いた夫が9月末に某市にあるアパートを訪ねてきた。夫から息子が新学年を迎えるまでに自宅マンションに戻ってくるなら生活費を送金するが、いつまでも別居を続ける気なら援助しないと言われた。Aは売り言葉に買い言葉で自分の貯金を取り崩しながら生活すると答えた。
 夫が帰ってから支援者に相談すると「気持ちが整理できないからすぐ帰れないが3月までには戻ると言って生活費を受け取ろう。いざとなったら離婚して生活保護をもらえばよいだけだ。共産党が協力すればまちがいなく生活保護がもらえる」とアドバイスされた。Aは電話で嘘を伝えられず、手紙に支援者の言う通り「新年度までには戻る」と書いて夫に送った。
 実家の父親と姉も訪ねてきた。二人に見通しの甘さを厳しく注意され、父親から2ヶ月で自活できなかったら戻ってこいと条件をつけられ現金を手渡された。
 夫から生活費が振り込まれてもこれだけですべてを賄うことはできず、食事が提供されたりアルバイトが紹介されることもあって反原発運動など政治運動にできる限り参加した。運動に参加すると他の自主避難者や避難を肯定してくれる人たちに出会えて孤独が癒やされた。
 父親、療養中の母親、姉と電話で連絡を取るたびひどい喧嘩になって年末を迎えた。両親は姉妹のうちAだけを贔屓できないと言い、姉は療養中の母親の負担になっているとAを嗜め、これに対してAが被曝への危機感を理由に反論したことが諍いの原因だった。翌年の3月になると「新学年までには戻る」とした約束を夫に問い詰められ、嘘がばれたことで生活費の送金が打ち切られた。

強気と後悔

 Aは2013年の年末に金銭面に限らない避難生活の難しさを友人Bに語るようになり、いくつかの課題について具体的な解決策を伝えるため筆者が直接対応することになった。このなかで生活保護を受けるための必須条件として離婚を考えるのではなく、危機感と理想とする家族観を整理しなおして現実的な着地点を探るように勧めた。
 Aは心境の変化があっても強い怒りを国や東電にぶつけ続け、反原発集会でいかに過激なスピーチをしたか誇らしげに語りメールに攻撃的な文言を書き連ねてきた。Aは「こんなに怖い思いをしたのは福島県のせい」とも発言した。
 2015年に夫との離婚が成立した。このときAは職を得ていたこともあり親権者となったが、のちに失業して経済的な不安だけでなく強い後悔の念が重なって精神科に通院したほか生活保護を受けたこともあった。この頃になると反原発運動は勢いが衰えて他の政治運動が勃興していたが、Aはどのような運動にも興味を抱けず、同時に自分が誰からも相手にされなくなっているのを感じた。支援者は何かと迷惑そうに振る舞うようになり、共産党の集まりからも足が遠のいて赤旗の購読をやめた。Aは移住先の地元に溶け込もうとしない理由を「自分は避難者だから」と説明し、支援者らと疎遠になっても職場や住まいの周辺で交友関係を築こうとしなかった。この時点で喜怒哀楽を吐露できるのは友人Bのほか筆者とHくらいになっていたことになる。
 Aの離婚後に友人Bがアパートを訪ねると、部屋だけでなくキッチンとトイレの汚れかたが尋常ではなく、精神的に余裕がまったくなくなっている様子でAは「仕事と子供のことで手一杯で、もうほかに何もやれないと言っていた」という。またこの頃になるとAは首都圏の子供たちが被曝によって健康を損ねていないことに気付いている様子だった。

反原発運動と放射線デマ

 Aは小出裕章と山本太郎に心酔して、彼らの主張をなぞるように政府や専門家は信用ならないと主張していた。このほか有名なツイッターアカウントでは竹野内真理、木下黄太、オノデキタ、早川由紀夫、白石草の名を挙げることが多かった。
 2013年10月24日に山本太郎が「ベクレてるんやろなぁ、国会議員に出すお弁当は」と発言したときは「もっと言ってもよかった」と思ったという。風評被害などというものはあり得ず、放射能汚染されている危険を世の中に知らせなければならず、安全と言う人たちを「わからせるのが無理なら社会から退場してもらう」必要があると考えていた。
 Aは交通安全運動を例えにして自分の言動と福島県に発生している風評被害を正当化した。
 「暴走車が事故を起こしたとき、暴走運転の危険性をテレビで報道したり、別の場所の道路にスクールゾーン注意と立て看板を立てることが車や地域への風評被害になるだろうか。誰もそんなことは言わないし、もっと自動車に厳しくしろと言うはずだ。母親として暴走運転者に怒るのはあたりまえで正義だ」と言った。暴走車が原子力発電で、風評被害とされるものは注意喚起に過ぎず、まだまだ注意喚起が「足りないくらいだ」と考えていた。

消息を断つ

 Aとの間で帰還の意思がまったくないことを確認して、2016年に帰還支援を終了させた。他の自主避難者や家族たちと同じように支援終了とともにAの個人情報を一切破棄したが、その後も筆者やH宛てにAから断続的に連絡があった。最後の連絡は2020年5月で、コロナ禍の不安を語るメールが届いてアドバイスできることはないものの話の聞き役として二度返信したのちメールアドレスそのものが消えたほか、他の方法でもいっさい連絡が取れなくなりA母子は消息不明となった。
 消息を断つ前年、Aは自主避難者間の格差を話題にすることが多かった。福島県からの自主避難者とAでは自治体の対応だけでなくマスコミと活動家の態度にも違いがあり、引っ越し早々に感じた避難者としての格下感は強まるいっぽうだった。また人生が取り返しがつかないものになって、仮に現状を維持できても将来に「希望がまったく見出せない」と言っていた。
 帰還支援を終了させる際にどうして近畿地方から帰還しないのか問うと、Aは「夫に見限られたのはしかたない。実家の両親と姉夫婦とも大喧嘩をして関係をこじらせてしまい、このことを考えるだけで気持ちがつぶされそうになる。いざとなったら子供だけ帰すか、この子の父親を頼れるようにします」と答えた。だが元夫のもとに息子から連絡はないと、友人Bはいう。
 避難時に30代だったAは40代後半になり、小学生だった息子は高校生になった。Aが筆者らを拒絶しなかったのは、帰還の可能性を捨て去れなかったからだろう。母子にとっては長く重い10年だった。彼女が信奉したインフルエンサーや放射脳と呼ばれた人々は影響力を失って発言が途絶えたか、相変わらずの調子でALPS処理水放出反対の論陣を張っている。なかには自主避難者の悲劇は、国と東電だけのせいだと言っている者までいる。




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