【短編】リリーとチェリー

隣の村田さんが飼っていたチェリーは、よく吠える中型犬だった。同じ中型犬でも、我が家のリリーはずっとお利口で、境界に張られたフェンス越しに吠えられてもつんとして構わなかった。母はうるさいね、と言ったが、小学生の私はチェリーのことをそれほど嫌いにはなれなかった。黒いくりくりとした目で、三日月型のしっぽを振りながら私にわおんわおんと吠える姿は愛らしかった。リリーは雑種でシルエットは柴犬、緑の目で、毛は赤茶色にところどころ黒が混じり、腹としっぽの先だけが白かった。チェリーの耳は垂れていて、胴はすらりと長く曲線的で外国産の猟犬を思わせ、つやつやとした薄茶色の短い毛で覆われていた。私はチェリーも雑種だと思い込んでいたけれど、大人になってからペットショップのポップの「成長するとこうなります」という写真にチェリーにそっくりな犬を見かけた。村田さんは朝餌をやりに庭に出る時にさえアイラインばっちりに化粧をし、ゆるくパーマのかかった髪をきちんと整えていたのを思い出して、妙に納得した。リリーは迷子になって動物病院で保護されたのを兄が母に頼み込んで引き取った。チェリーは多分、どこかで買われてやってきたのだろう。
歳の離れた兄が家を出てからは私がリリーの散歩係になった。赤いリード(その頃はそんなおしゃれな呼び方を知らなくて、ただ「紐」と呼んでいた)を引いて汚物袋を持って、適当に近所を歩き回っていると、時々チェリーを連れた村田さんに会った。犬達は互いの尻のにおいを嗅ぎたがったが、特に話す事もないので挨拶だけして別の方向に行くのが常だった。帰る場所はほとんど同じなのに、一緒に帰ろうとは、私も村田さんも一度も言わなかった。むしろ、いつもより遠くまで行って、帰るタイミングがずれるようにした。チェリーは可愛かったけれど、尻のにおいを嗅ぎたがる犬二頭が一緒に歩けば紐を引くのが大変になるし、何より私はまだ村田さんとの距離の取り方がわからなかった。

ある朝チェリーがいなかった。リリーに餌をやるために庭に出て、フェンス越しの鳴き声がないので不思議に思った。水道だの食器だの生活音は聞こえているので、旅行に出ている風でもない。大体、旅行なら村田さんはうちにドッグフードを預けて、庭に入っていいからあげておいて、と母に頼むのだ。
数日後、学校から帰ってきて乱暴にランドセルを置いた私に、母は今にも泣きそうな声で言った。
「ねえ、チェリーちゃん、死んじゃったんですって。毒の入ったハンバーガーが庭に投げ込まれてたらしくてね。あの子、うるさかったから、誰かの恨みを買っちゃったのかしらね、かわいそうに」
その声色で、母はチェリーのことを好いていたんだと知った。その頃の私はハンバーガーなんてほとんど食べた事がなかったし、毒と聞いて紫色で臭いスライム状の物しか思い浮かべられなかったし、うるさくて迷惑がかかるのはうちを含めた隣近所の数軒しかないという事実に気付けないくらい幼かった。不特定多数の人間の蠢きの中から放り出された紫がかったハンバーガーが、あの愛らしい犬の目の前にぽとりと落ちる様を想像して、そして食べる時には吠えずにお行儀のよくなるチェリーの姿を思い出して、村田さんは、あのきれいにパーマをあてているおばさんは、今どうしているだろうと思った。その匿名の悪意のあまりの残酷さと、毒入りのハンバーガーというゲームの中から出てきたみたいな嘘くさくてセンセーショナルなアイテムによって、私は自分にできることは何一つないと結論付けた。
それから私は犬を飼っている友達数人に、その「事件」について話し、怖いねえ、と言い合った。でもそれはチェリーのかわいらしさやあの犬固有の特徴などとは別の話で、私はそれが無性に後ろめたかった。私はチェリーの死を軽く扱っていた。
その後ろめたさはずっと消えなかった。リリーの散歩の帰り道に村田さんと会ったとき、チェリーについて何も話題にしなかった。それぞれの家が見えているくらいの距離だったし、今更進路を変えるのもおかしかったので、家のある通りの端から十数メートルを私は村田さんと歩いた。
「リリーちゃん、元気ねえ」
と村田さんは言った。そして学校楽しい?と聞いたので、まあ、とにごして答えて、それだけだった。私の頭の中はチェリーのことでいっぱいで、多分村田さんだってそうだったのに。村田さんの家の前で、私は無意識に柵の中を覗く。村田さんはそれに気付いたと思うけど、「またね」と言った。でもそれから村田さんと会う事はなかった。相変わらず隣に住んでいたのに、犬のいない大人と、犬のいる小学生の生活は、それほど重ならないのかもしれない。中学生になって私達家族が引っ越すことになり、母は多分いろいろと挨拶をしたが、私はしなかった。その家で過ごす最後の夜、寝付けなくて二階の自分の部屋から、村田さんの家の庭と、自分の家の庭を見た。その時にはもうリリーも交通事故にあって死んでしまっていて、二つの庭はただ静かな庭だった。

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