【短編】イーゼル

夕闇に消えたのは、影だけではなかった。一緒に歩いていたはずの古谷が、いなかった。通り沿いに点々とある電灯はまだ点かない。恵比寿から中目黒に向かって歩いていて、途中にあるビストロがうまいという話をしていたはずだが、そのビストロの前で立ち止まって「ここ?」と振り返ったら、もういなかった。というか、それなりにいたはずの歩行者はみんないなかった。見える範囲の駒沢通りに、人が歩いていない。こういうことはよくあった。気付くと一人になっている。
「おーい、古谷ー」
一応声に出して呼ぶが、やはり返事はない。ビストロの中を覗くと、まだ時間が早いからか、店の中は明るいのに客どころかウェイターすらいない。誰もいない。

一人で入っても仕方ないので通り過ぎると、すぐ横の駐車スペースに目が止まった。片隅に置かれたゴミ袋の山の横に、イーゼルが立てかけてある。古びていて、キャンバスを載せる台の部分の端が大きく欠けている。このまま廃品として処分されてしまうのはなんだかもったいないので、持って帰ることにした。持ち上げると大変軽くて、死に際の父を抱えた感覚に似ていた。車椅子に移す時に、サイズと重さは近いようで遠いと思ったものだ。

そのまま、中目黒と代官山の境にある家まで帰った。誰にも会わなかった。部屋に置いたイーゼルは、置き捨てられている時よりも大きく感じられた。いくつかの物を置いてみた。写真、クロッキー、辞書、バリ島土産の腰掛け猫の置物。どれも小さすぎて合わない。仕方なしに、家の中に一枚だけ飾ってあった絵を置いたら、ぴったりだった。父が趣味で描いた抽象画で、形見分けにと母が寄越した。青と黄色の丸が重なっている。
この、黄色がとても嫌いだった。焼かれる前の父の肌の色に似ていた。それで、上から緑を塗った。椅子を塗るのだと古谷が買っていたペンキだ。キャンバスからペンキが垂れて、イーゼルにまで流れおちたとき、しまったと気付いた。古谷はこの青と黄色のバランスがいいと言っていたのに。電話が鳴った。古谷だった。
「もう、どこ行ったんですか。私もうビストロですよ」
「一人で入ったの?」
「他に誰と入るんですか」
「それもそうだな」
「早く来てくださいよ。来ないから先に飲んでますよ」
「悪い」
電話を切って、絵を眺めた。絵の具の青と緑のペンキは、居心地悪そうに画面に収まっている。ビストロまで持って行ったら飾ってくれはしないかと思ったが、イーゼルの代わりにゴミ袋の横に置かれるのは嫌だった。ティッシュでペンキを拭き取ったら、全体が緑がかってしまって、元には戻らなかった。この絵を描いた人間はとっくに焼かれて墓の中だった。仕方なしに絵を元の位置に戻した。イーゼルに付いたペンキだけが、きちんと緑だった。家を出ると、街にはもう灯りが溢れていて、灯りの数だけ足元にできる影を目で追いながら、古谷はまだ生きているから、きっと許してくれるだろう、と思った。

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