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中野重治の「梨の花」を読了し、進む事に決めた。

私は現在、大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」についての記事を書き終えている。私は、この本を読了した後に会う約束をしている方がいる。

どのタイミングでいつ出すか。迷ったまま時間が過ぎている。記事を出すのは簡単なのだが、そこの場に立つ覚悟が出来ない。なんだろう。もう、なぜか会うのが少し寂しいのである。

私より年長のその方は、私に大江健三郎の楽しみ方を教えてくれた。SNSを介して自分の意見を言える方に出会えると思わなかった。

会えば聞きたい事が山ほどある。

だけど、きっとそれはあっという間に終わってしまうのだ。生まれて初めて自分の思想というものを語れる人に出会えている今の気持ちは、ずっと読書仲間がいないまま、独学で40年を過ごして来た私からすると半ば夢見心地そのものだ。

このままの気持ちで会えないと考えた私は、もう一冊手に取った。それは、大江健三郎が若い人達にすすめたいという「梨の花」という中野重治の作品だった。

大江健三郎は、自身のエッセイでこの本についてのことを書いていた。私は、小説で見せない大江健三郎のその文体に、こんなに優しく落とし込むのかとその短い文にほんわかした。本の説明、自分との重なりから母のこと。そして中野重治への思い。

それは、私が書くように、普通に本が好きな人が書くそれだった。

私は、大江健三郎がこの本に重ねたことを自分自身に落とし込み、その根源を探り、私自身が思うことを考えたくなったのかも知れない。

「梨の花」は、中野重治の自伝的な小説なのだと思う。思うとしか言い切れない。少し恐ろしいくらいの生活描写がそこに残っている。

主人公が小学生から中学生になるまでの日常を描いているのだが。

日常を描くというレベルが、今まで読んできた本の中でも段違いに凄い。生活、歴史、風土、時代そのものが間違いなく、そのまま残っている。その田舎暮しの生活描写が、

どうしてここまで覚えているの?

と、恐くなるくらいだ。
何がそうさせているか、考えた。この本は恐いくらい忠実に生活を描写しているのに、主人公の子供が大人の話しを聞いている場面なので、バッサリと子供にはわからない事だと話を切ってしまう。

徹底的に子供目線なのだ。

だから、子供の時に漠然と考えていた怖さや、大人の不可思議さがそのまま自分自身も感じたことのある体験として伝えてくる。

凄く暮しぶりが分かるのに、同じ日本人でありながらもう半分くらいその生活がなんとなくしか理解出来ない。明らかに今自分が暮している日本とは違う国の話しみたいにも読めてしまう。

大江健三郎は、ここに日本の故郷がある。日本の忘れてはならない形があると考えたのだろうか。

私は、変化し過ぎた日本を感じた。

そして、何より家族もそこに生きている。
私はこの描写で田舎にいたばぁちゃんを思い出した。

「おばば、心配しなったじゃろう。」と良平がいう。
「心配、した、したア……」とおばばがいう。しかしおばばは、心配の話は一つもしない。歯の一本もない口で、何かの思い出話のようにして前の家の喜吉つぁんの話を楽しそうにする。

「梨の花」より

私が、この本を読むべきタイミングでやはり読んだのだと思う。これを読んだと伝える事はないかも知れないが、これが私の思想の中に入ったという事実で少し会いたい気持ちが増しているのである。

なんのはなしですか

進もう。もったいない気持ちは充分味わった。
時近し。

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