瀬崎元嵩

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瀬崎元嵩

芸術とか、武術とか、学術とか…。 Instagram:https://www.instagram.com/mototaka_sezaki/

最近の記事

沖縄空手体験記 ―岡本太郎「沖縄文化論」から考える

 2019年の夏ごろ、岡本太郎が久高島を訪れるドキュメンタリーを観た。今から60年前に、日本列島群の南の小島でシャーマン的な文化を保っている人々がいた。イザイホーと呼ばれるその祭りは、「エッファイ、エッファイ」という甲高い声をあげながら、大勢の女性が広場をグルグルと回っている。現代社会とは遠くかけ離れた原始的な文化が残っていた。  岡本太郎をはじめ、写真家の東松照明や中平卓馬など、沖縄に魅せられた作家がいる。一度でも沖縄を訪れたことがあれば、南国のヒリヒリとした太陽、透き通っ

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      23.10.2019

      • 「出来事の演劇」とは何か ーマレビトの会『福島を上演する』

        マレビトの会という松田正隆が代表を務める劇団があります。現在(2018/10/27)、フェスティバル/トーキョーのプログラムで 『福島を上演する』を東京芸術劇場シアターイーストで上演中です。 2013年の『長崎を上演する』からは、俳優の声を張らない発話、おろそかな身振り(マイム)、衣装や大道具、小道具を用いないことなど、本来「演劇」と呼ばれるものに必要だと思われていた要素を徹底的に排したスタイルを確立しています。それはまるで素舞台で行われるコントのようでありながら、マレビトの

        • 密度とおろそかさの両立の難しさ ―リー・キット展@原美術館

          おろそかでありながら、密度を高める。 密度が高くても、軽やかである。 両立させることは至難の業である。 リー・キット展に行ってきました。 展示構成は驚くほど、シンプルで大胆です。 むき出しで置かれたプロジェクター、それが投影する映像と光、そして、木の板や顔が描かれた絵によって構成されています。上記のサイトに載せられている写真のとおりの作品です。 ある種、写真の異なるコンポジションであるように感じました。光があり、像があり、フレームがある。それに加えて、ささやかなキャプシ

        沖縄空手体験記 ―岡本太郎「沖縄文化論」から考える

          「無価値≒価値」というアート市場への渾身の皮肉 ―バンクシー、絵画の自壊

          みんなが絵画の自壊という出来事を無料で経験し、その残滓(無価値なもの)がさらに金銭的価値をえるという倒錯した世界について書きました。 バンクシーがやりました…。 バンクシーは素性を公表せず、ゲリラ的に街中に社会風刺のグラフィックアートを描いたり、美術館に勝手に自分の作品を展示することで、反権力、社会批判、アートの文脈の批判そのものを作品にしてしまった作家です。 今回は、自分の絵画をオークションで落札された直後に、額縁に内蔵されたシュレッダーで破壊したということです。おそ

          「無価値≒価値」というアート市場への渾身の皮肉 ―バンクシー、絵画の自壊

          再魔術化された世界はすぐそこにある ―本『脱近代宣言』落合 陽一他

          久しぶりに落合さんの本を読んで感じたのは、決してアナログな身体を捨てずに人間を乗り越えようとする姿勢でした。 いかに<原理>を生み出し、再魔術化するか本『脱近代宣言』落合 陽一、清水 高志、上妻 世海(著)を読みました。落合さんによる『魔法の世紀』という本は読んだのですが、そのときはあまりよくわかりませんでした。その後も、自分も研究と表現をオーバーラップしている身として、ずっと気になっていました。ほぼ同時に『デジタルネイチャー』という本も出版されたのですが、わかりやすそうな

          再魔術化された世界はすぐそこにある ―本『脱近代宣言』落合 陽一他

          ジョルジュ・ルオー展から映画『きみの鳥はうたえる』へ

          A『ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ』ジョルジュ・ルオー(1871―1958)、キリスト像や聖書といった宗教的な主題を描いた画家です。「聖なる芸術」「宗教絵画」といった言葉が現代において用いられるにふさわしい稀有な画家といえるでしょう。たとえば、今回の図版には以下の紹介がされています。 独自のキリスト像を描き始めたのは、国立美術学校を退学し、新しい画風を切り開いていた1904年頃のことです。以後、表現主義的手法で自身の日常を取り巻く都市の風景や市井の人々を描く中で

          ジョルジュ・ルオー展から映画『きみの鳥はうたえる』へ

          写真の「現在/過去」の二重性―畠山直哉「出来事と写真」

          自分が生まれる前の両親の写真には、人間と自然に関する回路があり、多くのヒントがあるという話です。畠山直哉さんに関する文章を引用するのはこれが最後になります。これまで「自然」という概念をめぐり書いてきましたが、それを経験可能なものに落とすというのが目的です。そして、それは写真の芸術性において重要なものです。 像と現実は、論理のタイプが異なる。このことを念頭に置いて、写真の経験を言い直してみよう。視覚の地平において、写真と現実とは、同じ経験ではない。それは確かだ。だが写真は現実

          写真の「現在/過去」の二重性―畠山直哉「出来事と写真」

          カメラは機械である ー畠山直哉・木村伊兵衛より

          前ページで、畠山直哉さんの「自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの」という考えを取り出し、その説明をしました。そこから、「みえないもの」「豊潤な世界」「外の世界」のほかに、「崇高」や「スペクタクル」という言葉が引用されました。 立ち止まって考えてみると、なぜこのような思考が一部の写真家、写真作家において成熟されているのでしょうか。「自然」というものを扱ってきたのは、昔であれば、死をあつかう宗教家(牧師、住職、シャーマン)であったり、日本の芸能であれば、能楽師や茶道家と

          カメラは機械である ー畠山直哉・木村伊兵衛より

          自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの ―畠山直哉「出来事と写真」

          自分の思考を明晰に語り、また、その思考を頼りに作品を生み出している写真家として畠山直哉さんがいます。「BLAST」という石灰石鉱山の発破の瞬間を撮影したシリーズが有名であり、東日本大震災以後の「陸前高田 2011‐2014」のような私写真的な試みもあります。今日、これから話すのは「BLAST」を念頭に置いてもらえると理解が早いと思います。 自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの(「出来事と写真」P78) 彼の作品の根幹にあるものは、この「自然」という考えです。これま

          自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの ―畠山直哉「出来事と写真」

          「顔」の消失から<非―人間性>へ ー山元彩香、個展。

          山元彩香さんという写真家の個展へいきました。 とてもよかったので共有したいと思います。 まずは、以下に参考の写真を載せています。 彼女の撮る人物は、顔が覆われていたり、横顔であったり、顔が見えても生気を欠いているのが特徴的です。その人物の写真は、「普遍的な人間の姿」「無意識の姿」と形容されています。私たちはその写真をみると、美しさや静謐、不気味さ、妖しさといった様々な感情を思い浮かべるでしょう。単純な言葉では言い切れない深淵なものに、「普遍」「無意識」という言葉をあてがいま

          「顔」の消失から<非―人間性>へ ー山元彩香、個展。

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          みんなのフォトギャラリー(β)

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          「ふつう」の芸術って「ちびまる子ちゃん」なのかもしれない

          「ふつう」とはなんでしょうか。 これらは特に関係のないツイートですが、頭の片隅に残っていて、探して並べてみました。 自分はいつからか「ふつう」という言葉を使っています。 これらのツイートはその「ふつう」に含まれる多様なものを感じました。 特に、最初のツイートに関して全面的に同意するわけではありませんが、昨今のアートでも社会問題やマイノリティを扱うことは当然であり、また、アートはそうした問題を訴求する方法となっています。 しかし、一方で多くのマジョリティ(一般人)はわざわ

          「ふつう」の芸術って「ちびまる子ちゃん」なのかもしれない

          アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉② ー「アナーキー」の思想

          前記事ではアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」と「逃げ去るイメージ」の違いについて書きました。 「内と外の均衡する瞬間」という言葉からもわかるように、「わたし」という内側の世界と外側の世界というふたつの世界があります。外側の世界は、この世界それ自体のことなので、普遍的なものです。一方で、創作や作品に直接影響を及ぼすのは、「わたし」の世界です。ブレッソンにおける「わたし」の世界とはどのようなものだったのでしょうか。 私にとって写真は、世界を理解するための、ほかの視

          アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉② ー「アナーキー」の思想

          アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉①

          アンリ・カルティエ=ブレッソン。戦前から戦後に活躍した写真家で、説明するまでもなく、有名なスナップショットの名人です。「決定的瞬間」という言葉を知っている方もいるでしょう。 有名な話ですが、この「決定的瞬間」は、1952年にアメリカで出版した写真集の名前です。ところが、フランスでの原題は『Images a la sauvette』で「逃げ去るイメージ」となります。この違いは、思いのほか大きく、ブレッソンの作家性に関わるでしょう。たとえば、彼は「決定的瞬間」において次のように

          アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉①

          ルイジ・ギッリの言葉 ー「ふつうのイメージ」

          自分の写真観を説明するために、偉大な写真家の文章を拝借したいと思います。 今日は、ルイジ・ギッリの「写真講義」という本です。ギッリは画家ジョルジョ・モランディのアトリエ撮影の写真が有名です。30歳ごろから49歳で夭逝するまでのわずか20年弱の間、写真での制作を行いました。日本では昨年、個展が開かれ再評価されています。上記の画像は、「写真講義」の背表紙で、モランディの作品を撮影したものになります。シンプルで、温かみのある作風が特徴です。 ギッリの「ふつうのイメージ」私にとっ

          ルイジ・ギッリの言葉 ー「ふつうのイメージ」