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自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの ―畠山直哉「出来事と写真」

自分の思考を明晰に語り、また、その思考を頼りに作品を生み出している写真家として畠山直哉さんがいます。「BLAST」という石灰石鉱山の発破の瞬間を撮影したシリーズが有名であり、東日本大震災以後の「陸前高田 2011‐2014」のような私写真的な試みもあります。今日、これから話すのは「BLAST」を念頭に置いてもらえると理解が早いと思います。

自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの(「出来事と写真」P78)

彼の作品の根幹にあるものは、この「自然」という考えです。これまでここで用いてきた言葉でいえば、「みえないもの」「豊潤な世界」「外の世界」ということもできるでしょう。そして、この「自然」の説明は簡潔でその本質をついています。この「人間の原理を超えて現象しているもの」は、同書の中で「崇高」という言葉でも説明されています。

心がふるえてどうしようもなくなる、でも美しいとは呼べない、それが恐怖なのかカタルシスなのか喜びなのかよくわからないみたいな、そういう体験をする場合がありますよね。で、それを「崇高」という言葉で呼んだんですね。たとえば嵐の海、巨大な山、それから信じられないほど大きな動物…そういったものは従来の美のジャンルには入らなくて、で、それを新たに崇高と呼んだんです。(「出来事と写真」P31)

自分が何かを説明するよりも、畠山さん自身の言葉の方がずっとわかりやすいでしょう。言うまでもなく、彼は「自然」や「崇高」という思考をもって、あるいは、熟成させて「BLAST」という作品が生まれています。そして、彼の作品の特徴は、それをそのままイメージとして成立させてしまったところにあります。鉱山の爆破以外にも、石灰石鉱山の工場や地下水道など、人間がつくりあげてしまった人智を超えた何かを撮影しています。それは、われわれ視るものを圧倒するのです。
人間が「自然」を見入ってしまうという例で、津波をみる子どもの例が挙げられています。

津波を「スペクタクルである」と言えば、それはとても半道徳的な発言ですよね。反社会的かもしれない。津波に「すげー」とか言ったら、不謹慎でしょう?隣でそんな奴がいたら、僕なら殴りたくなる。でも、さっき話に出した、ボストン美術館で流してた津波の空撮ビデオなんですけど、その大きなディスプレイの前で、十歳くらいの子どもが、瞬きもしないで口を開けたまま、食い入るようにして延々と画面を眺めているわけですよ。NHK提供のその画像は写りがものすごくよくって、つまりきれいで、画面の片隅で小さな黒い犬が逃げまどって水にさらわれていく様子なんかもありありと見て取れるの。それを子どもが我を忘れて眺めている。これってまさに「スペクタクル」であり「すげー」そのものですよね。(「出来事と写真」P241)

私たちは人が死んでいく様子を見ていることが悪いことだとは分かりますが、それとは裏腹に私たちはその圧倒的自然に魅入られていまいます。それは本能的に不可避な体験といえるでしょう。震災の日も、テレビを消せばいいのにずっとあの津波の光景を見てしまいました。ノイローゼになる人たちもまた、あの映像を拒否することができなかったともいえるでしょう。写真や映像は、ときに暴力的に、自分が体験していない出来事を、まるで体験しているかのように、わたしたちに見させるのです。

まずは、畠山直哉さんの思考から「自然」というものを取り出してみました。引用した説明で端的に「自然」というものが理解できるかと思います。同時に、それはいままで取り上げてきた写真家、ブレッソンやギッリにも共通する感覚であると思います。まずは、このことを確認したかったのです。
というのも、彼の思考は多岐にわたり、多くのヒントが隠されています。この記事もずっと前から考えていたのですが、どうしても煩雑になってしまい、考えが煮詰まってしまったので今回切り分けてみた次第です。しばらく、畠山直哉さんを扱いたいと思っています。


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