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「無価値≒価値」というアート市場への渾身の皮肉 ―バンクシー、絵画の自壊

みんなが絵画の自壊という出来事を無料で経験し、その残滓(無価値なもの)がさらに金銭的価値をえるという倒錯した世界について書きました。

バンクシーがやりました…。

バンクシーは素性を公表せず、ゲリラ的に街中に社会風刺のグラフィックアートを描いたり、美術館に勝手に自分の作品を展示することで、反権力、社会批判、アートの文脈の批判そのものを作品にしてしまった作家です。

今回は、自分の絵画をオークションで落札された直後に、額縁に内蔵されたシュレッダーで破壊したということです。おそらく、半分は残っているそうなので、作品それ自体は残り、さらにそこに付加価値が与えられることになりました。誰も損をしない方法がまたニクいです。

私たちは「絵画≒お金」という等式、つまり、絵画の価値はお金で決まるという価値観をもっています。なぜなら、野菜はいくら、魚はいくらというように、モノとお金は等価であるのがふつうだと考えるからです。だから、1,5億の絵画を破壊するなんてとんでもないことだと驚いてしまいます。高級なマンションをフイにしたと考えるでしょう。

しかし、「絵画」はただの絵であり、「1,5億」はただの数字です。

アートは、人それぞれの感じ方で価値は大きく変わります。そのため、投機の対象となり、価値は大きく跳ね上がります。その結果が「1,5億」です。しかも、そのお金はもはや単なる記号であり、労働の対価としてのお金とは性質が異なるものです。今回、「絵画」は破壊された一方で、この出来事に対してたとえば「3億」という値段がつけられるでしょう。そうすると、「絵画の残骸」が「3億」になることになります。とても滑稽な事態です。

しかも、この「出来事」は私たちが無料で体験しています。

つまり、絵画を破壊するという「出来事」は、「絵画の残骸」という証拠とともに記号としてのお金の価値を上げる一方で、この「出来事」は全員が無料で体験できるという不思議なことが起こります。このとき、私たちは「絵をみる」という経験に価値があるという前提があるはずなのに、そこにあるのは出来事の残滓でしかないわけです。
つまり、デュシャンの便器が無価値に価値を見出したのだとすれば(無価値→価値)、バンクシーは絵画の価値を「出来事化」(民主化)すると同時に、本当の残骸に記号としての価値を残してしまいました。ここに「無価値≒価値」という倒錯した等式を生み出したのです。

さて、バンクシーはそもそもストリートグラフィックアーティストです。誰もが無料で作品を楽しむことができるという理念があります。しかし、バンクシーが有名になるにつれ、市場原理が働き、壁を取り外してまでグラフィックアートが高値で取引されるようになります。それは反権力、反資本主義の考え方をもつ彼には不本意だったでしょう。一時は自分で作品を売ったりしていましたが、それも本意ではないはずです。今回の「絵画の自壊」は、まさに自分を取り込んでいたアート市場へのカウンターアタックでしょう。渾身の皮肉です。

出来事の残滓となった無価値のアート作品に、「億」という金銭的な価値がつくというこの無意味さは、私たちの価値観を根底から揺さぶるものでしょう。まさに、近代の矛盾をまざまざと見せつけました。そして、バンクシーの作品としても一周したという印象を受けました。

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