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写真の「現在/過去」の二重性―畠山直哉「出来事と写真」

自分が生まれる前の両親の写真には、人間と自然に関する回路があり、多くのヒントがあるという話です。畠山直哉さんに関する文章を引用するのはこれが最後になります。これまで「自然」という概念をめぐり書いてきましたが、それを経験可能なものに落とすというのが目的です。そして、それは写真の芸術性において重要なものです。

像と現実は、論理のタイプが異なる。このことを念頭に置いて、写真の経験を言い直してみよう。視覚の地平において、写真と現実とは、同じ経験ではない。それは確かだ。だが写真は現実の影である。つまり光を通じて現実に繋がっている。それも確かだ。「現実とは違う/現実と繋がっている」。この二律背反の同時生起性が写真の経験である、ということになる。この事実をしっかりと認める時、写真を見る僕たちの肉体内部に何が起きるのか。
あの「いま、ここ」と、この「いま、ここ」の間には、超えられない距離が生じており、しかもその距離は「ゼロ」でもあるというのだ。このあり得ない事実を認めるために僕たちは、すべての「いま、ここ」から離れた、あり得ない場所に立たなければならなくなってしまうだろう。結果的に、そう、写真を見る時の僕たちの内部には、世界からこの身を引きはがされたような感覚が生じることになるだろう。それをいま、写真の経験における「疎遠」と呼んでみよう。ここでもう一度よく考え直してみれば、この「疎遠」はすでに具体的な写真の経験以前、歩行中に立ち止まり、日常の視覚を「空間」や「時間」という概念と共に反省したあの瞬間から、僕たちの内部に少しずつ芽生え始めていたものであった、とも言えるだろう。
それから、もしその写真が公開されるなら、別種の「疎遠」も生じるだろう。写真の公開とは、その写真の撮影をしておらず、その写真を眺めるだけの、多くの「あなた」を生むということだ。その写真はあなたに「ここにあなたはいなかった。あなたは私の『いま、ここ』を共有しなかった」と告げている。「あなたは私にとっての他者である」と告げている。しかしあなたの視線は、暴力的と言っていいほどの力によって、もう一方の他者、つまり「私」の視線に重ねられてしまっている、まさに「いま、ここ」において。あなたにおいて、写真の経験の「疎遠性」は、こうして多重化されることとなるだろう。(「出来事と写真」P74,75)

これは常識的で、経験的なものによって説明されています。写真の像と私たちがいる現実は、この世界においては同じであり、しかし、それは過去に存在していたという意味で同じではないということです。例えば、自分が生まれる前の両親の写真をみたとしましょう。それは、確かに地続きに存在してると同時に、絶対的に自分が視ることができないものが存在していたということがいえます。このとき、なんとも言えない居心地の悪さがあります。私はこのとき感じた感覚を「世界からこの身を引きはがされたような感覚」ということが理解できるのです。ただ、この些細なことは多くの人が忘れてしまうでしょう。しかし、このズレがもつ不気味さにこそ、写真の本質をつかむための手がかりがあるといえます。
次に、この「疎遠」、つまり、何かと何かが一致しない事象は、写真と観者の関係においても起きます。写真を撮った人間と視覚を重ねながら、同時に、そのズレが露わになってしまうということです。そしてこれもまた写真がもつ二重性ということができるでしょう。
以上のことをまとめると、次のようになるでしょう。写真には「現在/過去」の二重性がある。撮る人(カメラ)と撮られる人(被写体)は写真をできた瞬間から過去の出来事として存在しつづける。同時に、写真をみる人は、それを視るとき、写真を視ている自分という現実と存在し続ける過去の出来事と直面する自分という現実がある。「すべての『いま、ここ』から離れた、あり得ない場所に立たなければならなくなってしまう」。つまり、写真を視る人間には、Instagramの時代でも共通して、このパラドックスが生じている。こうしてズレが多重化されているといえるのです。では、この「疎外(ズレ)」をどのように考えればいいのでしょうか。文章は次のように続きます。

ところで「疎遠」を「alienation」と表記するなら、それは「疎外」と同語であった。さまざまな意味のレベルで使われている言葉であるにしろ、果たしてこの「疎外」とは、僕たちによって批判され、克服されるべき、非人間的な状況の謂いに他ならぬもののはずではなかったか。僕たちは、一人一人の人生を惨めなものにする、世界や社会、あるいは自己からの「疎外」ではなく、世界や社会、そして自己との一体感こそを、昔から希求していたのではなかったろうか。
そこで大きな疑問が再び蒸し返される。「疎遠性」を美学的な問題として扱うこと。それが二十世紀芸術初頭以降の写真芸術の中心課題の一つであったように思えるからだ。たしか「alienation」を「異化」と訳すこともできたはずだが、それなどは、文学や演劇の世界において、表現を現代的なものにするための、有効な手段のひとつではなかったろうか。
なぜ多くの二十世紀初頭からの美術、写真芸術、そして文学は、その作品に現れる世界が非人間的であることに悪びれもせず、むしろ積極的にこの「疎遠性」を先鋭化させることに邁進してきたように見えるのだろう?なぜ非人間性の内に、制作の喜びやらしきものさえ見つけることができたように見えるのだろう?なぜそれは今でも充分「クール」であり続けているように見えるのだろう?(「クール」と「疎遠」とは、ひょっとして同義なのだろうか?)(「出来事と写真」P75,76)

疎遠、疎外、ズレ、異化…こうした言葉で表現される非人間的な何かは、人間が本能的に好む一体感と真逆のものです。一体感とは、Instagramでいいねをもらうことやテレビでワイドショーをみること、友だちと同じ話題が共有できることといった私たちが日常的に体験していることでしょう。どうにも、芸術だけが一体感への希求を拒否し、非人間的な何かを試みることが、むしろ芸術の核になっているともいえるでしょう。では、この非人間的な何かとはなんでしょうか。この引用では、それはシュルレアリスムなどいかなる解釈も可能に書かれているのですが、私は「非人間的な何か」とは、「人間の原理を超えて現象しているもの(≒自然)」ということができると思うのです。つまり、私たちが理性、意識でもって自然と距離をもったときに、根源的な「疎遠、疎外、ズレ、異化…」が生じていた、そのようにいうことができるでしょう。以上の説明を経ることでわかることは、人間、カメラ、自然という概念的な関係が、自分の体の経験的なものへと落とし込めるヒントがあるということです。自分が生まれる前の両親の写真には、人間と自然に関する回路が明らかにある。そして、この「疎遠、疎外、ズレ、異化…」は、いかなる写真にある一方で、その傾向を自覚的か無自覚的かに関わらず活かしているのがこれまでの写真作家の仕事でしょう。それが、普遍的なものか、二十世紀芸術の名残りかは、まだ誰も知りえません。しかし、それが何なのか、それを考え続けるのが目下の仕事です。


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