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ありのままの自分を愛せないのはいけないこと? ドラァグクイーンから学ぶ自愛の手引き



新卒で入社した制作会社は、不夜城と言われていた。
私は幸いそこまで激務は経験せずにいれたが、それでも家の最寄駅に着くのはオリジン弁当が閉まった後の時間で、「この生活は食のインフラにも見放されるラインなのか…」と愕然としたのを覚えている。

一等地にあるオフィスに通えど優雅さの欠片もない生活で、終電に間に合わずタクシーで帰り、道中で運転手に車を止めてもらっては吐いてを繰り返す生活を送っていた上司は、ある日急に会社に来なくなった。
そんな姿にぼんやり、そう遠くない未来の自分を重ねたりもした。


しかし、そんな自愛の欠片もなかった日々の中でも、意地でも欠かさなかったことがある。
それは化粧と、その日のなりたい気分に合わせて服を選ぶこと。どんなに忙しくても、間に合わせの服を着ることはまずなかった。

ある時、仲の良い先輩から「あなたは毎日手を抜かず化粧しておしゃれしてるねー。その美意識、見習いたい!」と言ってもらったことがあった。
今だから本音を漏らすと、私は善意100%のその褒め言葉を、まっすぐ受け止められなかった。
その時感じたのは喜びや照れではなく、紛れもない後ろめたさだった。

「いえ先輩、違います。私は醜形恐怖症で化粧しないと人と対等に話せないだけなんです。その人の目にどう写ってるのかが気になって気になって、ノーメイクだと自由に発言することもできないんです...。」
そんな言葉をとっさに飲み込み、「先輩ほど忙しくないだけですよ〜」とかなんとかヘラヘラ笑って受け流した。

本当は化粧せずとも、着飾らずともありのままに振る舞える、そんな先輩の健康な自尊心こそが素晴らしく、喉から手が出るくらい欲しいものだった。

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ちょうどその頃は世の中に「ありのままの自分を愛そう」や、「ありのままのあなたで美しい」というような、ポジティブなメッセージが広がり始めていた時だったと思う。

希望に溢れたこの言葉は確かに私を勇気づけもしたが、悲しいかな光には影がつきもので、やはり同時に罪悪感を心に植え付けた。

ありのままの自分を愛せないのはいけないことなのか、罪なのかと。
そんな強迫観念が逆に生まれ、世間の要請にすんなりと従えない自分に嫌気がさした。

本当の自分を愛したい、でもどうやって?
このループに苦しみ忙しさに擦り切れる生活の中で、一重瞼を隠すため太いアイラインを引き、ジミーチュウを履きヒールを鳴らすことで、自らを鼓舞した。
素顔の自分を受け入れられていないことを恥じながら。

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今はもう遠い過去のように思える、当時のヒリつく気持ちを生々しく思い出せたのは、この時の心境と見事にリンクする映画に最近出会ったからだ。

その映画とは、かの有名なキンキーブーツ。
ご覧になったことがある方も多いと思う。

先月劇場公開されていたミュージカル公演に友人が誘ってくれたので、再び作品の世界に入り込むきっかけができた。映画は以前観たことがあり話はわかっていたから、正直そこまで新鮮な感動はなかろうと侮っていてたのだが、完全に甘かった。ミュージカルならではの演出に痺れっぱなしで、帰宅と同時に違いを堪能すべく映画版をレンタルした。

軽くあらすじを説明すると、主人公は廃業寸前の老舗紳士靴工場を継ぐことになった跡取り息子チャーリーと、ナイトクラブのスター的ドラァグクイーンであるローラ。たまたま出会った2人は、紳士靴工場の新たな市場としてドラァグクイーン専用のブーツを作り始める。
地方と都会の2つの街を交互に行き来し、歌とダンスに乗せながらわかりやすい差別とわかりにくい偏見の両方を暴き乗り越えていくゴキゲンで骨太なストーリーだ。

見所となるシーンが本当に多い映画なのだけれど、一番私の中で印象に残ったのは、ジーンズとセーターという飾り気のない姿で工場に現れたローラ(もといサイモン)が、心ない言葉に傷付き、男子トイレに立てこもりながらこう溢すシーン。

「ドレスを着れば500人の前でも歌えるのに、ジーンズだと挨拶もできない...」

普段は自由奔放に振る舞うローラの切実な告白に、胸が締め付けられる。
そしてこの気持ち、わかる人はきっと多いはず。少なくとも私は、化粧をしなければ人と目も合わせられず、笑いながらも心の奥底ではずっと怯えていた、あの頃の自分をすぐに思い出した。

でもローラはそこで立ち止まらない。
その姿に私がドラァグクイーンに強く惹かれる理由を見た。
彼女たちには理想の自分になろうとする、とてつもなく強い気概があるのだ。

ストーリーの中でサイモンは理想の女ローラになるため、ショークラブで夜毎女性用ヒールに無理やり足を突っ込む。合わないサイズからくる足の痛みをウォッカで消しながら、それでもなりたい自分の姿を決して諦めない。

キンキーブーツはすごくハッピーなエールに溢れた映画だけれど、ヒールもいらない、ドラマティックなメイクもいらない、生まれたままの姿で生きていこう!!というオチにならないところが、私がこの作品を一層好きな理由だ。

サイモンはローラのまま微笑み、ヒールも化粧を手放さず(もちろん素の自分を受け入れた上でなのだが)、痛みのないヒールを作り続けることを選ぶ。それら全てが自分にとって必要ということを強くわかっているから。
なんて健康的な選択だろう。

自分のなりたい姿を意地でも手放さないローラの姿に、なんだかかつての自分を肯定してもらえたような気持ちがした。

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写真家ヨシダナギの個展「DRAG QUEEN- No Light, No Queen-」で出会ったドラァグクイーンの言葉も、さらに私たちの背中を押してくれる。
パリで初めての女性ドラァグクイーンのチェリー・クンティーは、インタビューでこう答えている。
「美しさとは自分と、ありたい自分とが調和していること」だと。

寛容さと希望が混ざり合うこの言葉は、聞いた瞬間すっと私たちの心に染み込む。

自分と、ありたい自分が調和していること。
今の姿を否定することなく、また、ありたい姿への渇望を捨てきれない自分すらもまるごと肯定してくれる、大好きな言葉だ。

丸の内OL時代の私は、忙しければ忙しいほど身綺麗に、価値ある自分を演じていた。そしてそんな姿を褒められる度、素の自分を愛せていないことを暗に指摘されたような気持ちになり、情けなかった。

でも、自分を愛する手がかりに、何かの力を借りようとすることは別に悪いことではないと、ドラァグクイーンたちは教えてくれる。ヒールでも化粧でも、その人とだったら心地よくいられる誰かでも。自愛の補助輪のようなものの力を借りて進んでいくことは多分きっと、罪ではない。

自分の好きな状態の自分でいること、そしてその状態で世界を見渡せば、全く違った景色が見えることもある。
そうしていつかその世界に慣れた時、補助輪が外れていても問題なく進めちゃってる自分にふと気付いたりもする。
現に私はもう、化粧をしてなくても人の前で笑えるようになった。(化粧やヒールの代わりに、一重でも素敵だとカメラマンさんが撮ってくれた写真がお守りとなったが)

個をなくすことが美徳だったこの国で育った私たちにとって、自分を大事にすることは結構難しい。
「等身大の自分を愛そう」と世間は言うけれど、そのメッセージを受け取るだけではすんなり自分を愛せない、そんな自愛初心者はきっと私以外にもたくさんいる(はず)。

そんな方々に向けて僭越ながら自愛に不慣れな者代表として、気高いドラァグクイーンたちを心に召喚することをおすすめしてみる。

自分をまるごと愛せないのであれば、それでもいい。
できないものはできないままでいい。
大事なのは、選べること。
こうありたいに、きちんと手を伸ばせる強さをもつこと。
それができれば、ありのままの自分を愛することに繋がるはずだから。

きっとこんな風に、心の中のドラァグクイーンは私たちにエールを送ってくれる。

この記事は「ご自愛ブラ」のPRとして執筆させて頂きました。
https://www.makuake.com/project/tigerlily/
この下着が、どなたかの自愛の補助輪になることを祈って。

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