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おやすみ、先輩。さよなら、未来(掌編)#創作百合 #SF百合

 放課後の理科実験室は肌寒い。いつものようにテーブルに寝そべっている冬月先輩の隣に腰かける。化学部とは名ばかりの部活動だ。所属する生徒は幽霊部員ばかりで、まともに参加しているのは私と……冬月依子先輩だけ。来年になれば先輩も受験のために引退してしまうから、そしたら事実上の廃部だろう。私は残るつもりはない。先輩のいない理科実験室なんて、薬と水の臭いがたちこめるだけのただの部屋だ。
 冬月先輩はいつも寝ている。成績は抜群に良いし、化学部としての実績もちゃんとこの二年間で残している。けど、この時間になるといつも眠くなってしまうらしい。私も机に寝そべってみる。目の前に先輩の顔がある。長い睫毛が少し潤んで、呼吸のたびに震える。綺麗なひとだ。私の好きなひと。起こさないように、爪の先を少しだけ頬に触れさせる。それだけでも、私の臆病な心臓は高鳴ってしまう。大好きなひと。あなたはきっと、私のことなんてただの後輩としか思っていないだろう。大人になって振り返れば、高校時代によく隣にいた後輩……それだけだろう。それならもう、ずっとずっと眠っていてくれたらいい。この時間だけは、だれにも邪魔されない私だけのものだから。
 私の瞼にも重みが訪れ始めたとき、ふいに閃光が頭上に輝いた。驚きとともに見上げると、天井のあたりに黒い円が浮かんでいる。あんなところに穴が開いていただろうか。まるで画像加工アプリでそこにだけ黒い丸を付け足したみたいだ。観察の時間は十秒にも満たなかっただろう。それはすぐに、その穴から現れた。
「……どうやら成功したようだ」
 にゅっと顔を覗かせたのは宇宙服と中世の鎧兜をむりやり合わせたような防護服を着こんだ人物だった。顔が隠れているために、男か女かすらもわからない。
「わーすごい。これが『教室』か……私の時代にはないものだなあ。おっと、違う違う。感心してる場合じゃない。ねえ、そこの君」
 私のことを「君」と呼んだそのひとは、けれど指先を冬月先輩に向けていた。
「お願いがあるんだけど、いいかい?」
 いやな予感がして、何も答えずにおいた。
「そいつ、殺してほしいんだ」
「……はあ?」
「ああ、うん。戸惑うのはわかるよ。ちゃんと説明する。説明すれば、きっとわかってもらえると思うんだ」
 そのひとは穴の奥の方に手を突っ込むと、フィルムケースを手渡してきた。思ったよりも重い。プラスチックではないことは確かだ。なかみは一粒の丸い錠剤だった。
「私は未来からこのワームホールを通って来た」
 ひとの頭上で、唐突に説明を始めた。
「この女はあと数日で、大切な人間を交通事故で失うことになる。そのときのショックから理性を失って世界を憎み、全人類を根絶やしにすることだけを考えるマッドサイエンティストになってしまうんだ。具体的に言うと、人類が二度と地上で生活できないレベルの抵抗力を持ったウィルスをばらまく。だからそのまえに、ここで息の根を絶つ。今、君に渡したのは私の時代で安楽死に用いられている薬だ。飲んだ後で毒性物質はすべてタンパク質に分解されるようになっている。証拠は残らない。君の手で飲ませて欲しい」
「どうして私が」
「私は未来の人間だからね。大きな干渉をこの時代に及ぼせば、宇宙そのものに歪が生まれてしまう。最悪、宇宙そのものが消滅することもありうる。あれ、じゃあ君と喋ってるのやばくない? でも、特に影響出てるわけじゃなさそうだな。なんでだろ? まいっか」
 未来の機関はどうしてこんなひとに大役を任せたのだろうか。
 いや、それよりもさっきの話にすごく気になることがある。
「その……先輩が我を失って世界を滅ぼそうとしてしまうほどに大切な人間って、誰なんですか」
「ああ、それはコードネーム……ううん、あだ名だな。わかっているのはそれしかない。〈Gly〉だ。じーえるわい。この女が放棄した研究所の日記に、〈Gly〉という人物との高校時代の記録が綴ってあった。それ以上のことはわからなかったんだよ……本当はこの時間での〈Gly〉を救うことができればよかったのだろうけれどね。それが誰かを探るにはこの時間に長くとどまるしかない。第一、人の命を救うよりも殺す方が簡単だろう?」
 あっけらかんとした態度でそう言ってのけた。私は顎を引いてそのひとを見上げる。
「それ、あなたの大事なひとにも言えますか。自分の命と相手の命、どちらかを犠牲にしないといけないとき、あなたは相手の命を消すことができますか」
「うん? 自分の命? うーんどうだろう。自分の命と相手の命、か……私の時代ってみんな容器のなかで培養されて育つから、親とか家族とかないから、いまいちそういうのよくわかんないだよね。うーん……ま、いいよそんなの。さくっとやっちゃって。ことの重大さはわかってくれた? 頼むよ。じゃないと、未来が大変なことになる。君も他人事じゃないんだからね。高熱と嘔吐で苦しみながら死にたくないでしょ?」
 穴の直径が狭まり始めた。そのひとは慌てた様子で「さくっとね。さくっと終わらせよ! お願いだよ!」と言いおいて穴の奥に消えた。穴も消滅する。もとからそこにはなにもなかったかのように。
 私はフィルムケースの中身をじっと見つめた。これを飲めば先輩は死ぬという。そして未来は平和な世界になるという。
 悩むことなんかない。蓋を開け、中の錠剤をハンカチの上に落とす。ただの整腸剤にしか見えないそれをこぼれないようにハンカチで包むと、近くにあったゴミ箱に捨てた。
 もぞもぞと身じろぎの気配がして、横を見ると先輩があくびをしていた。
「先輩、目が覚めましたか?」
「ううん……葉室、来てたんだ。よかったぁ」
 先輩は安堵の息をたっぷりと吐く。
「どうしたんです。私はさっきからここにいますよ」
「なんかさあ、変な夢見た。すごく寂しい夢。葉室が死んじゃう夢」
「……なに言ってるんですか、もう」
 栗色の柔らかい髪がぼさぼさになっていた。櫛で整えてあげると、先輩は子供みたいにへへへと笑った。
「葉室ってさ、やっぱり女の子だね。私、研究のことばっかだから、そういうことできるのうらやましいな」
「髪を梳かしただけですよ」
「ううん。葉室、優しいもん。いっつも私のこと起こさないでくれるでしょ。目が覚めたときに葉室が隣にいるとさ、なんかすっごく安心して、もっと眠くなるんだよねえ。葉室って、癒し成分出してるよね」
 そういってまたあくび。先輩は机に突っ伏す。
「先輩、寝ちゃうんですか」
「うん、そうする」
「寝る前にひとつだけ聞いていいですか」
「なに?」
「冬月先輩がいちばん好きなアミノ酸ってなんでしたっけ?」
「ん? アミノ酸? んーそうだな……グリシンかな」
 とろんと蕩けた表情で、囁くみたいな声で言った。
「グリシンは構造がシンプルで好きなんだ。それに、グリシンには安眠作用があるからね……まるで、葉室みたいだなって思ってたんだ……グリシンも葉室も、眠るのが大好きな私にぴったりだ……」
 そういった次の瞬間にはもう、彼女の瞼は閉じていた。
 あの未来人がいった〈Gly〉とはアミノ酸のひとつであるグリシンの略称だ。もしかしてと思って聞いてみたけれど、どうやらそういうことらしい。〈Gly〉……グリシンとは、私のことらしい。だから、この先に交通事故で死ぬのはたぶん私。
 きっと死ぬのは回避できないだろう。因果律というものについて調べてみたことがある。運命と言い換えてもいい。私の死は過去から脈々と続いてきた事象の結果のひとつであり、また未来につながっていく原因の事象のひとつでしかない。決して外すことのできない歯車のひとつなのだ。一度交通事故を回避できても、また同じように死の瞬間が巡ってくるはずだ。私の死は確定事項なのだ。
 でも、そんなことはどうでもいい。今の私はひどく満ち足りている。私が先輩にとって世界を滅ぼすくらい大事な存在になれていたという事実。胸の奥が温かくなる。これ以上の幸せなんてどこにもない。
 私は恍惚の眠りに落ちていく。脳内から神経伝達物質が流れ出て、私の身体をぬるま湯のような安心感が包み込む。ゴミ箱に捨てた薬のことをふと思い出す。私はちょっとだけ、先輩のほうに体を寄せて、思い切って肩をくっつけた。そこから伝わって来るぬくもりがなによりも心地よかった。

 さよなら、未来。
 おやすみなさい、先輩。
 ちゃんと世界、滅ぼしてくださいね。 
 

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「葉室、もう帰るの?」
「ええ」
「今日はここにいてよ」
「どうしました」
「なんか、この前みた夢が頭から離れないんだ。葉室がいなくなっちゃう気がする。明日にはもう会えない気がする」
「まさか。私はいなくなりませんよ」
「だめ。ここにいて」
「下校時間になっちゃいますよ」
「いいから」
「もう暗いですよ」
「いっしょに寝ようよ。明日の朝までここで寝てよ」
「先輩、もしですけど……私がいなくなったらどうしますか」
「全力で探す」
「どうやって」
「そうだな……葉室以外の人間を殺すウィルスでも作って、世界にばらまこうかな。そうしたらたぶん、すぐ見つかると思う」
「……ふふ、あははは」
「笑うとこかな」
「いいえ……先輩らしいなって」
「ほら、寝よ」
「もう……怒られても知りませんよ」
「いいよ。葉室とならいい」
「ふふ……はあい。おやすみなさい、先輩」
「うん……おやすみ、葉室」

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