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遺書のようなもの(=遺書ではない)

生きることは身体的な力と精神的な力が合わさって生きるものだと実感しています。覚えている父の最期の状態。彼を少しでも支えていたのかわからないけれど、私たち娘と離れ、自分の母親と暮らしていた彼が会うたびに痩せ衰えていくのをずっと見ていました。「この人はもう生きる気力がないんだ」と思ったことをいまだに覚えています。彼のしたことは許されないことだったけれど、支えたいという気持ちでいたのにそれが届かないもどかしさをいまだに悔やむことも多いです。

今もとても孤独で、いつでも閉じこもっている私も、母がいなくなったらいつそうなるかわからない、という恐怖とともに生きています。両親の離婚や引っ越しから就職もろくにできず、対人関係で一度もうまくいった経験がなかったため、ある時期からこの世界は自分を傷つけるだけの辛い世界なんだ、もう逃げたい、死にたいと思う日々ばかりでした。そして今もそれは続いている。

人間関係の記憶も、学生時代の辛いいじめの記憶と、頑張っていることが認められていく人を、選ばれていく人を、いつも横目で見てすごいね、おめでとうと言っている自分しか記憶にないのです。いつも壁際で消えそうな自分しか記憶になく、もはや生きているのか死んでいるのかわからない日々を過ごしている。正直、多分明日私が死を選んでもこの世界は何も変わらないのだから。生きる意味なんてない、正直自分が生きていることにそこまで大きな意味を思っていません。とりあえず猫と母がいるから、生きている。

男性との記憶も可愛い人たちを引き立てる人、ブスでデブな自分をゴミのように扱う人々としか記憶にないのです。私が主体的にそこにいる人として見てくれている人は本当に少ない。男性では誰もいなかった記憶です。多分誰かと会ったとしても次の日には忘れられる存在なのです。だから自分の言葉や思いを文字に書いたとして、誰にも見てもらえない、そんな力のない人間です。

特に希望のない毎日。声の大きい人たちにいつもかき消され消される存在。行動ができる人が羨ましいと思いながら、何もできない自分を卑下し、ひたすらに存在を消していく日々。変えるのは自分しかいないと言われても、どこからどう変えていいのかもわからない。明日もこのつまらないしんどい日常が続くことに、絶望しかしていない。